ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

20.11.17  akiさんのコメントと、ぼくからのご返事「ハイデガーのほうへ。」

2020-11-17 | 哲学/思想/社会学


akiさんからのコメント
2020.11.17
「質問です。」




 こんばんは。いやそろそろおはようございますかw akiでございます。


 早速のご返事、ありがとうございます。何度か読み返させていただきましたが、eminusさんからのご質問もあったのですが、そのご質問の意味するところが分かりませんで・・・質問に対し質問で返す非礼をお許しください。




>人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣(つか)えない。
死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。




 このハイデガーの言葉を提示されて、「それでなにか足りないところはありますか?」とお尋ねなのですが、ハイデガーがナチスに加担したことで非難を浴び、それでもなお20世紀最大の哲学者と呼ばれていることは知っていますが、この言葉の意味はよく判りません。




>人は死から目を背けているうちは、


 この部分については理解できます。しかし次の、


>自己の存在に気を遣(つか)えない。


 とはどういうことでしょう? 「自己」とは普通に我々が自覚している「この自分」のことでいいのでしょうか? そして、「気を遣う」とは、どんな気を、どのように遣うということでしょうか?


>死というものを自覚できるかどうかが、


 この部分は「死を自覚することが」と言い換えても構いませんか?


>自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。


 ここで言う「可能性」とはどのような可能性のことでしょう? そして、「可能性を実現して」と言わずに「見つめて」と言ったことに、何か意味はあるのでしょうか?




 ・・・我ながらメチャメチャ煩雑な訊き方ですね。(爆) そんな細かく考えんと、もっとざくっとおおまかに捉えたらええんやで、ということでしたら、おおまかにお答えいただいても全然構いませんので、よろしくお願いします。




 それとこれは質問に対する質問というわけではありませんが、


>正直ここは何度か読み返しても意味がすっきり届いてきませんでした。


 ここで言われているのは、「何を言っているかは理解できたが、心には全く響かなかった」ということか、「言っていることそのものが理解できなかった」ということか、どちらでしょう? なんとなく前者の意味かな、と思ってますが、もし後者であれば新たな説明が必要になるでしょうし・・・その場合、具体的に「この部分の説明が理解できなかった」とのお答えを頂ければ、重ねて説明できるかもしれません。(まあ能力には限界があります。その時はすみません)




 てなわけで。お手数をお掛けしますが、お答えよろしくお願いします。






☆☆☆☆☆☆☆



ぼくからのご返事
2020.11.17
「ハイデガーのほうへ。」




 そっちを攻めてきましたか(笑)。いや、たしかに大事なとこですね。いえいえ、ぜんぜん煩雑とは思いませんよ。もしこの質問を煩雑だというなら、ぼくのこのブログは成立しないんじゃないでしょうか(笑)。


>人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣(つか)えない。
死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる。


 この一節はハイデガーを「20世紀最大の哲学者」たらしめた主著『存在と時間』のキモにかかわるものですが、これがそのまま『存在と時間』のなかに記されているわけではないです。ハイデガーって人はこんな素直な言葉づかいをしない(笑)。どなたが編集されたのかは知りませんが、いかにも『名言辞典』みたいなものに収めやすいよう枝葉を刈り込んでありますね。でも本質を抑えてます。


 ここからハイデガーの話に入りますが、その前に、ひとつお含みおきください。哲学ってのは「死後」については語りませんし語れません。「死後」について語るのは宗教と、あとはまあ文学ですね。でも文学のほうは、どうせ絵空事っていうか、比喩みたいなもんだとみんな思って読むから、そんな切羽詰まった感じにはなりませんけども。
 哲学は、「死後」については語りませんし語れませんが、「死」について語ることはできます。とくに『存在と時間』という書物はそうで、ほぼ「死」という問題をめぐって繰り広げられるといっていいようなもんです。
 前回いただいたコメントのなかで、いま俎上にあげているくだりは、いわゆる宗教的な要素を捨象してしまえば、ほとんどハイデガーじゃないかとわたしには思えたですよ。
 akiさんがほんとにハイデガーを読んでらっしゃらないのなら、もともと哲学的な資質があるのか、親鸞さんと向き合うなかでそういう思考が育まれたのか、いやそもそもそういう資質をお持ちだから《信》の領域に惹きつけられたとも考えられるし、まあハイデガー本人を読んでおらずとも、その影響を受けた哲学書を読まれたのかもしれないし、そのへんはむろんわからないんですが、あのくだりを読んで「いやこれハイデガーじゃん」と思ったですね。そんな感じをあの時の気分で表現したら、あんな言い回しになってしまいました。少々ぞんざいでしたね。ここで補足いたしましょう。むちゃくちゃ長い補足になりそうですが。


 その前に書誌的な話をしておくと、『存在と時間』の邦訳は数種類出てます。中でも新しいのが光文社古典新訳文庫の中山元訳全8巻。これに次ぐのが岩波文庫の熊野純彦訳全4巻。あと、これらよりかなり古くなりますが、ちくま学芸文庫の細谷貞雄訳全2巻もスタンダードとして今も売れてます。でもぼくの手元にあるのはもっと古い中央公論社・世界の名著シリーズの原祐訳のみ。こういうのはたいてい新しいほうが読みやすくて面白いんですよね。しかしワタシも、そうあれもこれもと買い求めるわけにはいかぬので……。まあ原祐さんの訳だって、「中公クラシックス」版に姿を変えて今もなお流通してるから、ダメってわけではないんだけども、訳語や文体がいかにも哲学くさくて生硬です。むろんハイデガーのもともとの独逸語がそうだってことはあるにせよ。


 ぼくが「よく似てるなあ。」と思ったのは、たとえば以下のところです。ほんと哲学くさくて生硬なんだけど(原祐先生ごめんなさい)、そのまま書き写してみます。独特の用語が頻出するんで読みづらいとは思うけど、とりあえず雰囲気を味わってください。迫力は伝わると思います。中央公論社・世界の名著シリーズ版の410から411ページに掛けてですが……。




 死は、そのつど現存在自身が引き受けなければならない一つの存在可能性なのである。死とともに現存在自身は、おのれの最も固有な存在しうることにおいて、おのれに切迫している。この可能性において現存在には、世界内存在そのものへのとかかわりゆくことが問題なのである。現存在の死は、もはや現存在しえないという可能性なのである。現存在がおのれ自身の可能性としておのれに切迫しているときには、現存在は、おのれの最も固有な存在しうることへと完全に指示されている。このようにおのれに切迫しているときには、現存在においては他の現存在とのすべての交渉は絶たれている。この最も固有な没交渉的な可能性は同時に最も極端な可能性でもある。存在しうることとして現存在は、死の可能性を追い越すことはできない。死は、現存在であることの絶対的な不可能性という可能性なのである。このようにして死は、最も固有な、没交渉的な、追い越しえない可能性として露呈する。このようなものとして死は一つの際立った切迫なのである。こうした切迫が実存論的に可能である根拠は、現存在がおのれ自身に本質上開示されているということ、しかも、おのれに先んじてという在り方において開示されているということ、このことのうちにある。おのれに先んじてという気遣いのこの構造契機は、死へとかかわる存在のうちにその最も根源的な具体化をもっている。終りへとかかわる存在は、現存在の以上のように性格づけられた際立った可能性へとかかわる存在として、現象的にいっそう判然としたものになるのである。
 しかし、この最も固有な、没交渉的な、追い越しえない可能性を現存在は、あとから、またときおり、おのれの存在の遍歴のうちで取得するのではない。そうではなく、現存在が実存するときには、現存在はいちはやくこの可能性のうちへと被投されているのである。現存在はおのれの死に委ねられているのであり、だからこの死は世界内存在に属しているのだということ、このことについて現存在は、さしあたってたいていは、いかなる表立った知識をも、ましてや理論的な知識をももってはいない。死のうちへの被投性が現存在に、いっそう根源的に、またいっそう切実に露呈するのは、不安という情状性においてなのである。死に対する不安は、最も固有な、没交渉的な、追い越しえない存在しうることに「直面する」ときの不安にほかならない。こうして不安の対象は、世界内存在自身なのである。こうした不安の理由は、現存在の存在しうることそのものなのである。死に対する不安は、落命に対する恐怖と混同されてはならない。死に対する不安は、個々人にあらわれる気ままな偶然的な「弱々しい」気分ではなく、それは現存在の根本的情状性なのだから、現存在がおのれの終りへとかかわる被投的な存在であることが、判然となる。純然たる消滅に対して、さらにはたんなる終焉に対して、最後には落命の「体験」に対して、死がいっそう鋭く限界づけられたわけである。
 終りへとかかわる存在は、ときおり浮かびあがってくる気持によって、またそのような気持として、はじめて生ずるものではなく、現存在の被投性に本質上属しているのであって、この被投性が情状性(気分)のうちでこれこれしかじかに露呈するのである。終りへとかかわる最も固有な存在に関する現事実的な「知」もしくは「無知」は、そのつど現存在において支配しているのだが、そうした「知」もしくは「無知」は、この存在のうちでさまざまな在り方でおのれを保つことができるという実存的な可能性の表現にすぎない。現事実的には、多くの人々がさしあたってたいていは死に関して知らずにいるということは、死へとかかわる存在が「普遍的には」現存在に属していないということの証拠だと称されてはならないのであって、それはただ、現存在がさしあたってたいていは死へとかかわる最も固有な存在を、そうした存在に直面してそこから逃避しつつ、隠蔽しているということの証拠にすぎないのである。(後略…………)




 センテンスはまだ続くけど、ここらで止めておきましょう。なんか嫌がらせみたいになっちゃってますが、書き写してるこっちも疲れたというか、マジで気分わるくなってきました。原文と照らし合わせたわけではないから大きなことは言えないけど、いくらなんでも日本語としてももう少し整理できそうに思うんですがね……。言っちゃなんだけど、そりゃ新訳もいっぱい出てくるよなあという感じです。
 「現存在」「気遣い」「世界内存在」「被投(性)」などといった独自のキーワード(キーコンセプト)が駆使されます。これらは互いに絡み合ってるんで、ひとつひとつを説明すると堂々巡りになりそうです。一挙にわっとやっちゃいましょう。
 「現存在」とはほぼ「人間」のことです。この「現存在」は「世界」の内に「存在」しますが、それは石ころが箱の中にころんと置かれてるって仕方でそこに在るわけじゃなくて、「世界」に絶えず働きかけてるわけです。というか、「現存在」が働きかけることによって、はじめて「世界」が構成されると。そのような「世界」に「存在」するものであるから、たんに人間と呼ばずに、わざわざ「現存在」なんて呼び方をするわけです。このあたり、どうしても堂々巡りになります。この「現存在」は(石ころじゃないんで)「可能性」をもってます。それで、この「現存在」がじぶんの「可能性」に思いを致すことが「気遣い」です。
 ただ、人間ってものは熟慮の末にこの世に生まれてくるわけではなく、気が付いた時(俗にいう「ものごころ付いたとき」)にはもう存在しちゃってるわけですね。そのようなありかたが「被投性」です。「ぽんと投げ込まれちゃってる」みたいな感じですね。いっぽう、そのように被投された現存在が、世界を構築すべく働きかけるその働きが「企投」です。「企投」ってのは上で引用したくだりには出てなかったけど、ハイデガー哲学の重要なキーワードです。「世界―内―存在」というのは、その「被投性」と「企投」とが存在の根源のところで縺れ合ってる在り方をいいます。
 ただ、このような「現存在」は、ふだんは日常の中に安穏と埋没してて、切実に「世界」と向き合ってはいない。そのようなありようが「頽落」です。なんか悪口のようですが、ハイデガーは、「別に価値判断をするわけではなく、たんに、そういうものだというだけだ」みたいなことを言ってます。ただ、それが「現存在」にとって本質的かつ根源的な在り方でないのは確かです。そして、そのような「現存在」が全体性と本来性とを与えられるのは、自らの「死」との関わりの中においてである、というのが『存在と時間』のなかでハイデガーが述べていること(のひとつ)です。
 こうやってまとめてみても、やはり、こないだのコメントのなかでakiさんが書いてらしたことによく似ていると思いますね。それはつまり、「宗教」のことばに拠らずとも、akiさんのお考えはかなりなていど「哲学」の域内で語りうることではないかと私には思えたということですね。「ここまでは哲学の範疇で語れるけれど、これ以上はどうしても宗教のことばに拠らなければ無理」という区分けがもう少し厳密にできるのではないかと感じたということです。こんなところでご返事になっていますでしょうか。



この記事の続き。
20.12.21 akiさんのコメントと、ぼくからのご返事「知と信。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/a04012a57c7c78cc4ace1d62fa815925