ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

メメント・モリ

2020-11-25 | 哲学/思想/社会学

 このところのakiさんとのやり取りは誠に刺激的で面白いのだけれど、gooブログとしてはいささか重いかなとは思う。ではnoteのほうでやれば良いのかというと、コメント欄の字数制限のことを別にしても、それもまた違う気がする。されど、ぼくのほうとしては「話がややこしい所に来てしまった。」などと困惑しているなんてことはなく、とても本質的な話ができてすこぶる満足なのである。とはいえしかし、重いのはじっさい重いわけで、本質的な話ってのは大切なものではあるけれど、そればかりやっているのも不味いので、暮らしのことや、ブンガクのことや、アニメのことなんぞをあれこれ喋っているなかに、ふとしたはずみで紛れ込んでくるくらいがいいのではないか。そうも思ってるわけである。まあ、ぼくはこのブログで日々の暮らしについてほとんど述べないわけなのだが(食べるのも料理するのも好きなので、「今日の晩飯」なんてカテゴリを設けたら今よりぜったいアクセスが増えるに違いないんだけども)。


 さてさて。哲学の言説をわかりやすく「超訳」したりなんかすると、たいていは「名言辞典」の類にまとめて押し込められるような安っぽい警句になっちまう。それを承知で泣く泣く要約するならば、ハイデガーって人は「《自分の死》に真剣に向き合うことが哲学の始まりである。」と言ってると思う。ただこんな発想はもちろんデガさんの独創ってわけではなく、「限界状況」てなことをいったヤスパースもいるし、その前駆としてキェルケゴール(キルケゴール)もいる。もともとキリスト教神学と格闘しながらアイデンティティーを確立してきた西洋の近代哲学は、「死後」や「神」について語ることを頑として禁欲しつつも(「死後」や「神」について語れば「神学」と同じになってしまうから、これは当然の態度なのだが)、「死」には拘り続けたのである。これは東洋思想とりわけ儒教との対比において際立った特色をなすといってよい。そうはいってもキェルケゴール~ヤスパース~ハイデガー……往々にして、キルとヤスとのあいだにニーチェが入れられたりもするが……の流れは少々異色だぞってことも確かなのだが。


 で、「死」への拘りというならば、じつはこれもまたキリスト教が濫觴ってわけでもなくて、遡って古代ローマにはすでに「メメント・モリ memento mori」なる警句があった。「死を忘れるな。」である。この文句は有名で、サブカルでもよく援用されるけれど、ここではクリストファー・ノーランの映画のタイトル『メメント』を挙げておこうか。それくらい有名ってことですね。ウィキペディアによれば、古代ローマにおいてはこれは「どうせ明日は死ぬ(かもしれん)身なんだから、せいぜい今は楽しくやろうぜ。」などと、じつに享楽的かつ刹那的な意味で使われていたそうな。それがキリスト教の普及にともない、「この現世での快楽や財産や地位なんぞ、所詮は空虚でむなしいものなのじゃ。わしらの永遠の至福は来世にこそあるんじゃよ。」という含みになった……というのだが、どうも双方ともに極端で、あまり健全とは思えない。いずれにせよ、この「メメント・モリ」は絵画における「ヴァニタス vanitas」の寓意とも相まって、西洋文化の重要なテーマであり続けた。








 そして、この「メメント・モリ」や「ヴァニタス」と対をなすものとして、「カルペ・ディエム Carpe diem その日を摘(つ)め。」があり、ふたつ併せて「バロック精神の鍵となる言葉」とウィキペディアはいっている。バロック精神のキーワードとは、つまり西洋文化のキーコンセプトってことで、とうぜんその命脈は近代~現代にも受け継がれている。教科書的な括りでは「実存主義」などと一緒くたにされちゃう前述のキェルケゴールやヤスパース、さらには俗流に解釈されたばあいのニーチェおよびハイデガー、もひとつおまけにサルトルもまた、「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」との鬩ぎ合いの中にいる……といっていいだろう。「人生は空しい。だからこそ、今日という日を大切にしよう。」という含みである。刹那的な享楽主義にも、荒っぽい現世放棄にも与せぬ、中庸な考えだと思う。主体性をもち、自己の責任で今日という日を掴み取る。じつに現代的でもある。とはいえこれも、まかりまちがえば、「どうせ限りある命なんだから、すべてのものに感謝して、今日という日を力いっぱい、精いっぱい生きていきましょう!」なんて、いかにも昔の青春ドラマか自己啓発本並みの安っぽいノリになりかねぬから、安直に受け取るのは禁物なのだが。


 ともあれ、本当の意味で「死」を見つめる/観照する、なんてことは、本格的な修行を積んだ高僧にしかできぬほどのことで、そういえば、「太陽と死は直視できない。」というラ・ロシュフーコーの箴言もあったけれども、そういうことを業務として成し得るからこそ僧侶という階級は世俗を離れて高邁なる精神世界に居ますことを社会的にも経済的にも許されているわけで、ぼくみたいな凡俗は、どこまでも哲学、あるいはせいぜい文学を通じて「自分の死」をおそるおそる垣間見るしかないわけである。