ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ファンタジーと現実~新海誠の新作『すずめの戸締まり』に寄せて。

2022-11-14 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 新海誠監督の新作『すずめの戸締まり』が11月11日に公開されて、もうネット上にはネタバレをふくむ感想がちらほら出始めている。ぼくはまだ観ていないが(映画館まで足を運ぶかどうか思案中)、わりと信頼しているアニメ感想サイトでは、ほぼ絶賛に近い評価である。この方は前作『天気の子』に対しては微妙な感想を述べてらしたから、『天気の子』を凌ぐ出来栄えであることは間違いなさそうだ。
 ぼくは6年前に『君の名は。』を映画館で見て年甲斐もなくコーフンし、向こう1ヶ月ばかり『君の名は。』で頭が一杯になって、ブログの記事も何本か上げた。「『君の名は。』/『天気の子』」というカテゴリをつくってそこに入れてあるけれど、しかし最初の2本はあとで読み返したら気恥ずかしくなったので非公開にしてある。高揚しすぎて記事の体をなしていない。それくらい夢中になっていたということだ。
 『天気の子』の公開は2019(令和元)年7月19日で、中国の武漢市において新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の第1例目の感染者が報告される5ヶ月前だった(それからわずか数ヶ月ほどで年を超えて世界規模のパンデミックとなり、今もなお収束していないのは周知のとおり)。
 ぼくはこちらのほうは映画館には行かず、2021年1月3日の地上波初放送の際に観たのだが、コロナ禍をふまえ、エンディングの後に新海さん自らが編集したという「特別エンディング」が付されていた。あれはメッセージと呼ぶべきものであったろう。
 『君の名は。』が『シン・ゴジラ』と並んでポスト3・11の作品であること、つまり東日本大震災の衝撃から生まれた作品だったことは誰の目にも見紛いようがないが、『天気の子』もまた、このニッポンを覆った格差社会の現状と共に、毎年決まって台風の季節に列島を襲う台風の被害を想起せずして観ることのできない作品であった。しかも、ハッピーエンドだった『君の名は。』とは異なり、『天気の子』では遂に雨が止むことはない(災厄が収まらない)。それはぼくには作家としての新海監督にとっての前進であると思えたし、コロナ禍のことを考え合わせても、とても予見的な結末だったと思う。
 新海誠は、アニメ監督=モダンファンタジー作家として、宮崎駿よりも細田守よりも意識的に、それはもう比較にならぬほど意識的に、「ニッポンを見舞う災厄」を作品化することに力を注いできた。しかしいっぽう、これまでぼくの知るかぎりでは、現実に起こった出来事と、自らの作品世界との関わりについて、新海さんがはっきりとしたコメントを出したことはない。できるだけ曖昧に濁してきたはずだ。
 「現実は現実」「フィクションはフィクション」ということで、ずっと一線を画してきたのである。だからぼくも、昨年の1月、テレビで初めて観た後にブログで記事を書いたさい、あえてそういったことには触れず、「ロマン主義の極北」としてのみ、『天気の子』を論じたのだった。いわば社会性を完全に脱色するかたちで感想を述べた。
 『君の名は。』について、元歴史学者で今は批評家というべきポジションにいる與那覇潤がこう書いている。






 映画館の誰もが震災を思い出す小彗星の墜落事故を描きながら、『君の名は。』では、当初はうなだれてばかりだった男の子(瀧)がタイムワープして犠牲者の女の子(三葉)に危機を予告し、彼女が仲間たちと変電所の爆発による停電を起こして、地元を救います。わずか5年前の近い過去を、「遠い場所で起こった」「恋愛物語の背景にちょうどよい安全な悲劇の記憶」へと加工し、経済成長や原発行政の当否といった社会的な側面をすべてオミットすることで、神話上の一モチーフとして無害化する。その意味で『君の名は。』の大ブームとともに甦ったセカイ系の想像力は、往時の戦後映画の文法をなぞると同時に、前年の安倍談話と並んで、歴史なき社会への地ならしも完遂していたのです。


與那覇 潤『平成史―昨日の世界のすべて』(文藝春秋)より






 瀧が「当初はうなだれてばかりだった」というのも何だかピンとこないし(三葉の消息を追って糸守消滅の事実を知った際には打ちひしがれていたが、当初はずっと元気であった)、「タイムワープ」というのも少し違うし(「意識だけがリープして時間を超える」というのも一応は「タイムトラベルもの」に分類はされるけど)、「仲間たちと変電所の爆発による停電を起こ」すことで「地元を救」ったわけでもないし(あれは結局無駄だった。町民を避難させたのは町長である三葉の父親)、作品そのものに対する愛情はあまり感じられない文章だけど、「「遠い場所で起こった」「恋愛物語の背景にちょうどよい安全な悲劇の記憶」へと加工し、経済成長や原発行政の当否といった社会的な側面をすべてオミットすることで、神話上の一モチーフとして無害化する。」というフレーズは、初読の際にぼくの心にぐさりと刺さった。
 ようするにこれは、身も蓋もない言い方をすれば、「現実の過酷さをファンタジーの糖衣に包んで口当たりよく商品化した」ということだろう。しかも、「神話上の一モチーフとして無害化」したというからには、たとえば三葉が由緒正しい神社の巫女であることや、随所に引用される和歌の含意なども、すべてが「作品を飾るための意匠にすぎない」という話になる。
 『君の名は。』一作だけのことならば、たしかに、そう言われても仕方がないところはあるなあと、今もなおこの作品のファンであるぼくも思うのだけれど、ただ新海監督は、上記のとおりそのあと『天気の子』でさらに一歩を踏み出したわけで、そしてまた、ネットでの評判を見るかぎり、この『すずめの戸締まり』において、いよいよきちんと覚悟を決めて、さらに一歩、ファンタジーから「現実」のほうへと踏み込んだように見受けられるのである。
 すでに公式のツイッターなどで、「本作には、地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーンがございます。警報音は実際のものとは異なりますが、ご鑑賞にあたりましては、予めご了承いただきます様、お願い申し上げます」との注意喚起がなされているし、ネットでの感想を見ていても、「トラウマを抱えてる人は気を付けたほうがいいかも」といった書き込みが目立つ。どうやら、メジャーデビュー3作目において、ついに新海監督は、正面切って「3・11」を描いたということらしい。
 同時に、『君の名は。』に見られた(そして『天気の子』にも引き継がれていた)「日本神話的なモチーフ」の数々も、たんに上辺を飾って勿体をつけるだけの意匠ではなく、日本という国柄の伝統に見合った民俗学的な重さを備えて、より深いところで捉え直されているようだ(盟友RADWIMPS野田洋次郎の『HINOMARU』の件なども合わせ、そこに一抹の危うさを感じ取る向きもあるやもしれぬが)。
 「日本各地の廃墟を舞台に、災いのもとになる“扉”を閉めていく」というテーマは、新海監督が愛読者であることを隠さない村上春樹の短篇「かえるくん、東京を救う」(新潮文庫『『神の子どもたちはみな踊る』所収)を思わせるし、いやそれよりも、何のことはない、時代を超えて愛され続け、リメイクされ続ける『ゲゲゲの鬼太郎』とも通底している。ようするに、すずめは「守り(護り)人」「鎮め人」の役を担うわけだろう。だから、じつはとっくの昔からすでにもうぼくたちに馴染み深い主題なのではあるのだが、3・11や例年の風水害、頻発する地震、さらにおそらくコロナ禍をも踏まえて、ここにきて新海監督は、映像・脚本ともに最高レベルのクオリティーで、当該テーマの最新版を創り上げたということだろう。
 それが見事な作品に仕上がっているのは想像に難くないけれど、しかし、6年前とは大きく違い、今のぼくはファンタジーそのものに深い疑念を抱いてしまっている。映像が美しければ美しいほど、内容が素晴らしければ素晴らしいほど、作品に感動すれば感動するほど、「おれは現実と向き合うことから逃げてるんじゃないか。」という焦燥に駆り立てられるだろう。そんな気がしている。それが安倍元首相の暗殺された7月8日以降のぼくの偽らざる心情なのである。冒頭で「映画館まで足を運ぶかどうか思案中」と書いたのはそのことなのだった。

 この記事を書いた翌日、やはりどうしても観たくなって夜の部の映画館に立ち寄り、『すずめの戸締まり』を鑑賞してきた。とても良かった。
 それで、とりあえずネタバレに配慮しながら書いたのがこちら。

 『すずめの戸締まり』主題歌 RADWIMPS - すずめ feat.十明 [Official Lyric Video]
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/2009b0e165d269292b4ec3f52f0cff6f






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