ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

RADWIMPS HINOMARUについて 02 ~『君の名は。』はセカイ系か?

2018-06-16 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 RADWIMPSの「HINOMARU」にこだわるのは、前回も述べたとおり、このバンドがアニメ『君の名は。』にふかく関わったからである。
 たんに主題歌をふくむ4曲を提供したというだけでなく、作品の製作中から新海誠監督となんども打ち合わせを重ね、ストーリー展開や、「世界観」そのものにも影響を与えた。ただの音楽担当じゃないんである。
 でもって、ぼくは2年まえ、その『君の名は。』に激しく入れ込んだのだった。今でも好きだ。
 そんな縁がなかったら、こんなややこしそうな話題、ブログで取り上げたりしない。
 「右」と「左」との、いわゆるイデオロギー論争てきなやつは、ここでは遠慮しておきたい。ちなみにぼくは、「右」のほうの立場だ。それで、日本語にはかなり厳格である。だから前回は、内容については棚上げして、ひとえに「文法」もしくは「用法」の見地からこの歌詞を難じた。
 「HINOMARU」の歌詞における擬古文の使いかたはあまりに稚拙で、ありていにいって「中2レベル」であり、とても看過できない。もともと中2っぽいブンガク臭が野田洋次郎の詞のウリであったにせよだ。なぜなら、これが「愛国(心)を歌ったうた」だから。愛国(心)を歌うのならば、せめて正しく美しい日本語を使ってくれ。それが前回のぼくの主張であった。これについてはもちろん、「この内容をがっちがちの文語調でやったらほんとに軍歌になってしまう。野田さんはそれを避けたのだ。」との反論もありうるだろう。ただ、ぼくが見たところ、野田さんにはそこまでの素養はなく、仮に文語調をやりたくても、できなかったと思う。
 ふつうのひとなら別にいいけど、いやしくも表現者を自認する者が「愛国(心)」をテーマに作品を世に問うならば、最低でも古事記、日本書紀、万葉集、古今と新古今、源氏、ずっと飛ばして芭蕉、蕪村、さらにずっと飛ばして漱石、これくらいには目を通しておいてほしい。精読しろとはいわない。目を通すだけでいい。漢詩だの本居宣長だのまでやれとも言わない。だから、けして無理はいってないはずである。
 このことは、野田さんだけじゃなく、ゆずの北川悠仁さんにも当てはまる。
 まあ、こんなことをわーわー言うのはぼくくらいだろう。いずれにせよ、「右か左か左か右か」のせめぎ合いみたいなのからは、ちょっと距離を置かせて頂きたいのだ。ぼくがこよなく大切に思うのは(「愛」とはすこし違うようだ)、「日本」よりむしろ「日本語」なのかもしれない。
 あと、「表現の自由」の問題も出ている。ぼく自身は、「表現の自由」を何より重視するものである。このたび野田さんがツイッターで謝罪したのは、たぶん営業上の理由が大きいと思うが(この夏に韓国をふくむアジアツアーがある)、この曲そのものを廃盤にしたり、ライブでの演奏を自粛するなんてのは、もってのほかだと思う。
 それくらい強い禁足処置が必要なのは、特定の個人や集団などを、明確に名指しで傷つけたばあいだけだろう。この歌は、たしかに危ういものを孕んでいるかもしれないが、そこまでリアルに誰かを傷つけているわけじゃない。そのような表現までをも抑圧するのは、社会そのものにとってもよくない。そのほうがずっと危うい。
 はてさて。なんだか前回からアツくなってるが、やはり題材が題材だけに、気が高ぶってるんだと思う。
 今回書きたかったのは少し別の話である。冒頭でのべた『君の名は。』のことだ。
 このたびの件でぼくは、作詞家としての野田洋次郎にはなはだ失望した。
 念のためいうが、「ウヨク的だ」と思って失望したわけじゃない。歌詞の日本語が稚拙すぎたからだ。そしてもちろん、「表現(歌詞そのもの)」と「内容(歌詞のあらわす世界観。とりあえずここでは曲のことは度外視)」とは不可分一体のものだから、歌詞の脆弱さは、けっきょくのところ、野田さんの思想そのものの脆弱さにつながる。
 そこでぼくは気が滅入ったわけである。だって、冒頭でのべたとおりRADWIMPSは『君の名は。』に深くかかわってるのだ。野田さんの思想の脆弱さは、ぼくの大好きな『君の名は。』にも通底してるんじゃなかろうか……。
 たしかに、オトナの目で冷静に見返してみると、『君の名は。』はけっして完全無欠のおハナシではない。圧倒的な映像美と、卓越した編集技術をふくむ映像表現で覆い隠されてはいるけれど、ストーリーそのものをつぶさに見れば、弱いな、と思える点はある。
 これまでぼくは、あえてその点に目をつぶってきた。でも今回の件で、なんだかどうも、真剣に向き合っとかなきゃいけない気分になってきたのだ。
 そのための手掛かりがほしい。
 「右か左か」のイデオロギー論争とも、「表現の自由」の問題とも違う立場から、「HINOMARU」にアプローチした文章はないか。そう思ってネットを見ていたら、石黒隆之という方のエッセイを見つけた。
 肩書は「音楽評論家」である。前回のwikipedia引用の中にもお名前があった。椎名林檎の「NIPPON」について、
「日本に限定された歌がずっと流れることになるのも、相当にハイリスク」
「過剰で、TPOをわきまえていないフレーズ。日本以前にサッカーそのものを想起させる瞬間すらない」
 と批判した(とwikipediaに記されていた)方だ。
 なおぼくは、林檎嬢のファンってことを抜きにしても、このご意見にはまったく賛同できぬことを書き添えておく。
 その石黒さんが、「HINOMARU」についてこう書いておられる。

 さて政治的な興味から注目された「HINOMARU」ですが、野田氏の“幼い全能感”は他の曲からも見て取ることができます。「五月の蝿」(2013年、作詞・作曲 野田洋次郎)という曲が典型的ですね。上っ面だけ暴力的な言葉の羅列によって、とりあえずセカイと個人が対決しているような雰囲気を作る。そんな不可解な戦いの中で、どういうわけか重要な真理を知った気になってしまう。


 「五月の蝿」は、YOU TUBEに公式PVがアップされているけれど、「問題作」「怪作」と呼ばれ、スプラッタムービーを思わせる語句が並んでいるので、そういうのが苦手な方、食事前の方などはくれぐれも注意されたい。ぼくにいわせれば、まあ、ボードレールの末流であり、そりゃポップスの歌詞としてはショッキングだろうが文学的には別にどうってこともない。ただ、本を読まない若い子たちが「トラウマ級だ」だの「すげえやっぱ野田天才」だのと持てはやす気持はわかる。そんな歌である。
 「五月の蝿」論はさておき、ぼくが注目したのは「セカイと個人が対決している」のくだりだ。なるほど。セカイ系か。気づいてみれば何を今さらって感じだけれど、『君の名は。』=新海誠さんは、「セカイ系」というキーワード(キーコンセプト)によってRADWIMPS=野田洋次郎さんと繋がるのだ。
 「『君の名は。』の脆弱さと向き合わねば。」というぼく個人の今回の課題は、ここにきて、「『君の名は。』はセカイ系なのか?」という設問に置き換えられた。
 セカイ系とはなにか。
 東浩紀さんの定義が明快だ。
 セカイ系とは、『主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)とを中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと』である。
 なるほど。しかし「抽象的な」よりも、「おおげさな」のほうがより分かりやすいと思う。
 代表的なものとして、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人のラノベ『イリヤの空、UFOの夏』、そして新海さんの『ほしのこえ』が挙げられている。『ほしのこえ』は、2002年に公開された、新海監督の初の劇場用アニメだ。
 ぼくは観てないが、wikiによれば、「携帯電話のメールをモチーフに、宇宙に旅立った少女と地球に残った少年の遠距離恋愛を描く」ものであったとか。
 もともと新海さんは、「セカイ系」の代表と見なされるほどの人だったのだ。むろん、前に読んだ「ユリイカ」の特集号にもそのことは書かれてあった筈であり、これを失念していたのは、やはりぼくが『君の名は。』の脆弱さから目を背けたかったせいだろう。
 『「ぼく」と「きみ」とが、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といったおおげさな大問題に直結する作品』をセカイ系と呼ぶなら、そりゃあまあ、『君の名は。』はセカイ系に違いない。
 しかし、「具体的な中間項」とは何だろう。
 「個人」がいて、「世界の危機」があって、そのあいだに挟まる「具体的な中間項」といえば、ほとんどもう自衛隊クラスの、強大なパワーをもった国家的機構くらいしか考えられない。
 となると、『君の名は。』と同じ2016年に公開された『シン・ゴジラ』がすぐ思い浮かぶ。あの特撮ドラマの事実上の主人公は「日本の官僚機構」そのものだろう。矢口蘭堂(長谷川博己)はいわばそのシンボルにすぎない。
 とはいえ、いちおう名前を与えられ、人格を備えてるんだから、ひとりの「個人」には違いない。強引だけど、この蘭堂と、カヨコ・アン・パターソン(石原さとみ)とを「ぼく」と「きみ」だと見なすなら、『シン・ゴジラ』は、『「ぼく」と「きみ」とが、具体的な中間項をぎっしりと挟んで「世界の危機」「この世の終わり」といったおおげさな大問題と結びつく作品』であるから、「セカイ系」とは呼ばれないはずである。
 ネットで確認したところ、果たしてそのとおりだった。『シン・ゴジラ』は、あきらかに、「セカイ系」とは一線を画すものとして扱われている。さすがにあれだけの設定を整え、取材に基づいて綿密にシステムの内実を描き込んだら、「セカイ系」とは呼ばれないのである。
 だけどこれだと、ようするにシミュレーション・ノベル以外のものは、たやすく「セカイ系」っぽくなっちまうんじゃないか。
 伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』なんてどうだろう。ぼくは映画版をテレビで見て、このブログで分析もやったが、あれだって、人はいっぱい出てくるし、「国家的謀略」なんてのが絡まってもいるが、ありようは、「青柳」と「晴子」とのお話なのである(ふたりは結局、ひとことも言葉を交わさないけれど)。
 「世界の危機」とまではいかないけど、一組の男女のラブストーリーを描きたいがために、「国家的謀略」なんてのを持ち出すんだから、おおげさといえばおおげさだ。
 こう考えていくと、「セカイ系」というコンセプトは、思いのほか射程が広いかも知れない。
 いきなり話が大きくなるが、世界文学の古典中の古典、ダンテの『神曲』だって、ダンテがベアトリーチェという(べつに恋人でもない)女性にべらぼうな思い入れをして創り上げた作品である。
 「世界の危機」ではないにせよ、地獄、煉獄、天国を経巡るんだから、格調高き妄想炸裂ファンタジー、といえないこともない。
 あるいは、ゲーテの『ファウスト』はどうか。ラブストーリーの要素は薄いが、悪魔と契約し、グレートヒェンという美少女と熱烈な恋に落ちて(じきに捨ててしまうんだけどね。ひどい奴なのである)、異世界にまで及ぶ大冒険の果てに天国に迎えられるんだから、やはり相当おおげさである。
 マンガだと、『20世紀少年』などどうか。これも昔ぼくは当ブログで分析したが、小学校の同窓生だけで「じんるいのめつぼう」にまで至ってしまう世界。いちおう国会の様子も描かれてたし、ローマ法王なども出演されてらしたが、それだけをもって「具体的な中間項」と呼べるだろうか。
 現代小説でも、「日常べったりのリアリズム」から離れて、少しでもSFチック、ファンタジックな発想を導入したら、ほとんどもう、「セカイ系」っぽくなっちゃうんじゃないか。言い換えると、フィクションってものは、そもそも根っこに「セカイ系」たる資質を含んでるのではないか。
 そんなふうにも思えてくる。
 セカイ系とはじつは、文芸用語でいうならば、「ロマンティシズム(ロマン主義)」の一種だ。
 これもいろいろ定義はあるが、ドイツ・ロマン派の精髄は、「自己(自我)と世界との合一」である。そのばあい、やはり独りじゃ物悲しいし、話としても面白くないので、だいたい恋愛要素が絡む(失恋に終わるケースが多いが)。
 自己(自我)と世界とが、「具体的な中間項」なしに合一する。恋愛もからむ。
 もろセカイ系ではないか。
 『君の名は。』は、『シン・ゴジラ』と比べるまでもなく、べっちゃべちゃのロマンティシズムの作品だ。もともと新海さん自身がそういう作家で、だから『君の名は。』がセカイ系に属することは間違いなくて、それだけを指摘しても、さほどたいしたことはなさそうだ。
 『君の名は。』がセカイ系に属するのは前提として、このアニメが、セカイ系を超え出ている要素はないか。そう考えてみたい。
 『君の名は。』は、「世界の危機」を扱ってはいない。「ニッポンの危機」「東京(首都)の危機」を扱ってるわけでもなくて、ここで危機に晒されるのは、「糸守」という地方の(架空の)小さな町である。
 もういちど、初めの定義に戻ってみる。
 セカイ系とは、主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)とを中心とする小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといったおおげさな問題に直結する作品である。
 『君の名は。』とは、ヒロイン(三葉)と青年(瀧)とを中心とする(超自然的ではあるが)小さな関係性が、具体的な中間項を挟むことなく、「糸守の危機」「糸守の終わり」という大きな問題に結びつく作品だった。
 微妙だが、決定的な差異がある。「糸守」は、「世界」に比べてはるかに小さい。三葉にはたぶん、住民ひとりひとりの顔が(濃淡の差はあれ)ぜんぶ判っているはずだ。そのことはもちろん、瀧もよく知っている。
 だから、三葉のからだに入った瀧は、半信半疑のテッシー&さやちんと組んで、糸守町ぜんたいを救おうと(文字どおり)奔走した。
 町長(父)がまったく取り合ってくれず、必死の叫びも住民に届かず、ついに彗星が頭上で割れ始めたとき、すでに自分のからだに戻っていた三葉は、自分ひとりで、あるいは、せめて祖母と妹を連れて、逃げ出すこともできたはずである。
 しかし、彼女はそうはしなかった。それどころか、そんな発想に思い至る様子すらなかった。やっぱりそれは、彼女が糸守の町そのものと、その住民や、風景や歴史と深く「結ばれて」いたせいだ。
 三葉と瀧は、けして自分たちだけで完結して、そのまま世界と合一しちゃったわけではない。周りの人たちとの「結び」をちゃんと保っていた。
 この一点において、『君の名は。』は、ありきたりの「セカイ系」に留まらず、3・11以降の「リアル」に向かって手を差し伸べているといえないだろうか。
 とりあえず今回ぼくは、そのような結論に達した。当面のあいだは、『君の名は。』を好きなままでいられそうである。



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