ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「君の名は。」のためのメモ。 奥寺先輩

2016-10-04 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり

「君の名は。」のためのメモ 004  奥寺先輩



 奥寺先輩(奥寺ミキ)は、見るからに大人っぽいし、とても世慣れた風情なので、25、6歳くらいかと思っていたら(CVの長澤まさみさんは当時ほぼ29歳)、小説版によると、なんと大学生なのだった。

 初デートのとき、瀧は高2(17歳)だから、せいぜい三つか四つしか変わらない。三葉はじつは瀧より三歳年上なので、瀧を取りまくこのふたり、本当はおおむね同い年ってことになる。

 この三人は、むろん同席することはないけれど、三葉は彼女のことをよく知っており、「あこがれのお姉さんふう女友達」みたいな気分でいる。奥寺先輩も、三葉本人とは面識はないが、ある意味では三葉と親しいといえる。

 現実世界ではありえない、とても不思議な関係だが、「三葉が瀧のからだを借りている」というファンタジックな設定さえ取っ払ってしまえば、わりと青春ドラマにありがちな構図でもある。

 それというのも、じつはこの三人、「三角関係」でもあるからだ。

 三葉が(勝手に)お膳立てした初デートのさい、瀧はどぎまぎするばかりで、会話もはずまず、奥寺先輩はシラケ気味だった。

 表層だけみると、あれは年下の男がうまく相手をエスコートできず、自滅していった図に映るけれど(ぼくにも経験があります)、しかし奥寺先輩くらい聡明で、世間慣れして、コミュニケーション能力の高いひとなら、逆に年下の瀧をリードすることも容易だったはずである。

 けれど彼女は、ぜんぜんそんな気分にならなかった。なぜか。

 デートの終盤、「今日はまるで別人みたいね」と言われるので、「先輩は三葉の入った瀧に興味をもっただけで、男子としての瀧本人に惹かれていたわけではない。」という見方もできるところだが、そうではなくて、奥寺先輩は瀧本人が好きだった。

 これについては、「瀧のルックスはわれわれの想像以上によい。」という案件と、「新海作品の男子は、デフォルトでもてる。」という二つの案件が加味される。シャクにさわるが事実である。

 さらに、飛騨で旅館に泊まった際、「前から気にはなってたけど、最近はますます魅力的に思えて」というような述懐もしていた。最近とは、三葉との「入れ替わり」が始まってから、ということだろう。「入れ替わり」が始まってから、瀧も三葉も、周囲に与える印象が強烈になったのだ。小説版にもそう書かれている。

 奥寺先輩は瀧が好きだった。そう。「惹かれている」とか「興味がある」というレベルではなく、本気で好きになっていた。さもなくばあのあと、司が同行しているとはいえ、強引に旅に付いていったりしない。

 奥寺先輩が初デートの途中で興ざめしたのは、彼女が自ら指摘したとおり、「まえに自分のことを好きだったはずの瀧が、今はべつの女の子を好きになっている。」ことに気づいたせいだ。

 もちろん、三葉のことである。

 瀧じしんは、このときまだ、まったくそれに気づいていない。

 念のためにいうが、これは2016年のできごとである。

 いっぽう三葉は、この日(しかし瀧の時間軸からいえば三年まえ)の朝、「ああ……今日は奥寺先輩とのデートの日だ。ほんとは私が行きたかったけど、しょうがない。瀧くん、うまくやるかなあ……」(このせりふはぼくがいま即興でつくったもので、本編にはない)などと軽い気持ちで考えながら、鏡に向かっていつものように髪を結っているとき、ふいに涙を流す。

 そのとき彼女も、初めて、自分が瀧をものすごく好きになっていたことに気づいたのだった。

 それでもう、矢も楯もたまらず、登校の途中、妹の四葉に言い置いて、制服のまま東京行きの列車に飛び乗る。そして2013年の東京に降り立ち、さんざん迷い歩いたあげく、電車のなかで、14歳、中学2年の瀧に会う。

 三葉には、「わたしたちは、会えば必ず、すぐに互いのことがわかる。」という確信がある。

 それはたしかにそうだったのかもしれないけれど、とはいえ、それは三年まえの世界だから、「入れ替わり」は起っておらず、瀧には彼女のことを知る由もない。

 「誰だ、お前?」と問い返された三葉は、ひどく傷つき、電車から降りる。しかしふたりは、その一瞬、(三葉がリボン代わりにしている)組み紐を取り交わすことだけはできた。

 瀧はその出会いすら忘れていたが、その組み紐を手放すことはしなかった。三年間、ずっと右の手首に巻き続けていた。

 傷心の三葉は糸守町に帰り、祖母の一葉に頼んでばっさり髪を切ってしまう。

 それが、奥寺先輩と瀧とのデートの日、三葉のほうの時間軸(三年まえ)で起ったことだ。

 そして、じつはこれは彗星落下の前日でもあった。

 なお、飛騨のあの辺りから東京まで、日帰りができるのか、という点については、「十分に可能」であるらしい。というか、そういう土地を選んだのだと、新海監督がインタビューで述べている。

 それまでは「はた迷惑な同居人(?)」か「ケンカ友達」くらいの気持で関わっていた瀧に対して、三葉が「思慕」を抱いていたことを自覚せしめた点において、さらに、そのまま列車に飛び乗って、「起こるはずのない三年まえの出会い」までをもを実現せしめた点において、奥寺先輩の存在はたいへん大きい。

 恋心ってのは、往々にして、「ライバル」の出現によって顕在化するものなのだ。

 この作品には、「三人」という人間関係が頻出するが、ある意味で、この「三人」がいちばん重要かもしれない。

 神社の巫女(かむなぎ)たる三葉にたいし、彼女が「寺」の一字をその姓にもっているのも、対称性を際立たせるためのネーミングだろう。さらに「ミキ」に「三樹」という字を当てるなら、対比はますます鮮明になる。

 奥寺先輩と瀧とが行動をともにするシーンで、ぼくの記憶では、画面によく「半月」のイメージがあらわれる。背景の空にぽつんと浮かんでることもあるし、瀧の着ているTシャツの柄になっていたりもする。

 これは、奥寺先輩というひとが、瀧の「片割れ」ではないということを示してるんだろう。彼女といても、瀧の「半分」は満たされないのだ。

 糸守への旅のとちゅう、奥寺先輩(と司)を旅館に置き去りにして、瀧はひとりで「ご神体」へと向かう。そうやって先輩は作品から退場してしまうのだが、ラスト近くで、あらためてその麗しい姿をみせる。

 2021年。瀧は大学四年生でまだ就活中。奥寺先輩は、当然ながらというべきか、社会人(「大手アパレルチェーン」勤務らしい)として順調にやっている様子。「仕事の都合でこっちに来たから」とのことで、ふたりは落ち合って昔のことを語らい、かつてのバイト先(高級イタリア料理店)にて夕食を共にする。

 聡明で優しい先輩には、瀧がまだ「ほんとうに大切なもの」に巡り会えておらず、意識的にか無意識にか、それをずっと探し続けて、つねに渇いているのが見て取れる。

 別れ際、彼女は手をふる。その薬指に光るシックな細い紫の指輪(もちろん婚約指輪だ)は、三葉と瀧とを結ぶ「夕陽の色の組み紐」と鮮かすぎる対照をなして、ぼくは映画館の席で震えたほどだ(テレビサイズではこの感じは伝わらない)。

 君もいつか、ちゃんと、しあわせになりなさい。

 それが奥寺先輩の(この作品における)最後の「言の葉」だ。村上春樹『ノルウェイの森』のラストで、レイコさんが「僕」に告げる最後の言葉とおおむね同じである。

 この場面でもたしか、背景の空には、半月がさりげなく掛かっていたような気がするのだが。



 追記)2018年1月3日に放映されたテレビ版で確認したところ、このシーンの最後に映る月は半月ではなく、きれいな満月だった。ただそれが、交差する電線によって真中から二つに断ち割られていた。半月じゃないのは、この世界が「三葉がぶじに生き延びたほうの世界線」であることを表しているらしい。ただし、まだ瀧と三葉は巡り会えてはいない。だから真ん中で断ち切られているわけだ。まことに細かい演出である。ところで、この「奥寺先輩とのラストデート」の直前、カフェで瀧(および高木)と同席している司の指に、奥寺先輩のものと酷似した婚約指輪がみえた。これは偶然とは思えない。先輩の婚約の相手が司だという説は以前からあって、ぼくは「いやそれはないだろう。」とずっと思っていたのだが、しかし、やっぱりそうだったのか。もともと気が合っていたようだし、旅館にふたりで残されて、ロマンスが生まれたのであろうか。それで5年付き合って、司の就職内定を待って、婚約に踏み切ったということか。やや釈然としない点も残るが、どうもそういうことらしい。





「君の名は。」のためのメモ。 名前について。

2016-10-01 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
「君の名は。」のためのメモ 003  名前について




 三葉(みつは)の名前の由来は、ミヅハノメ。
 イザナミの病および死によって生まれた神々のなかの一柱。
 以下、wikipedia「ミヅハノメ」の項より、一部を抜粋(2016年10月現在)。
 『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)。
 『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神(おかみのかみ)とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
 「ミヅハ」は、「水走」の意と解して、灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め(泉、井戸など)のことともされる。『古事記』には他に闇御津羽神(クラミツハ)があり、これも同じ語源と考えられる。
 「ミツハ」に「罔象」の字が宛てられているが、罔象は『准南子』などの中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精と説明されている。
 wikiからの引用はここまで。折口信夫(おりくちしのぶ)の論考「水の女」も、面白いので参照のこと。
折口信夫「水の女」 青空文庫


 以下はぼく個人の考察。
 彼女の姓「宮水」も、文字どおり「お宮」と「水」で、三葉と水との親和性は露骨なまでに明らかだし、さらにいえば、彼女が「水神」とも同一視されていると見なしても、けして無理ではないだろう。そして水神はまた龍神でもある。
 いっぽうの「瀧」は、さんずい(水を表す)に「龍」で、だから彼が三年の月日を隔てて三葉と結びつくことは、その名前からも暗示されている。
 同時に、この作品においては、「彗星」も、「龍」と二重写しになっている。長く尾を引いてなだれおちてくる星は、古代人の目にはあたかも龍と映ったであろう。瀧が「ご神体」を訪れたとき、かつて(1200年まえ)この地に落ちた彗星が、龍神の姿で描かれているのを目にした。
 その「ご神体」の場所自体が、さらにその前、2400年前に彗星が落ちた場所なのだ(前回、1200年前に落ちた場所はカルデラ湖……「糸守湖」になっている)。
 「ティアマト彗星」のティアマトとは、メソポタミア神話の女神で、やはり龍の姿で描かれることが多い。この女神は分裂して怪物を生み落とし、破壊をもたらすが、そのあとで再生を司るともいう。

 三葉という漢字表記にももちろん意味がある。
 「三」は古来より神話においても昔話においても重要な数で、もちろん本作でもそうだ。何よりもまず、三葉と瀧との世界を隔てる歳月が三年。
 新海誠監督は、「三部作」構成を好む。「君の名は。」も、冒頭のコミカルな「とりかえばや」騒動と、中盤の「失われた町を求めて」旅をするミステリー、そしてラストの町民避難のためのスペクタクルと、ある種の三部構成になっているという見方もできる。
 人間関係では、
 三葉と祖母(一葉)、妹(四葉)で三人。
 三葉とテッシー、サヤちんで三人。
 瀧と司、高木で三人。
 瀧と奥寺先輩、司で三人。
 時空を隔てる三葉と瀧が、ほんとうに「ふたりきり」になるのは奇跡みたいなもので、それは最後の最後まで待たねばならない。それまで二人は、幾度となく、(まさに菊田一夫の「君の名は」のごとく)「すれ違い」つづけるのである。
 「葉」は、もちろん植物のことでもあるが、ここでは「言の葉」の意味合いがより色濃いかと思う。
 「古今和歌集」の「仮名序」に、「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉(ことのは)とぞなれりける。」とある、あの「言の葉」である。
 新海監督が2013年に発表した前作のタイトルが「言の葉の庭」で、この作品のヒロイン雪野 百香里(ゆきの ゆかり)が、そのまま「古文の先生」として「君の名は。」にも登場し、「かたわれ時」についての大切な話をしている。声優も同じ花澤香菜。
 この場面で「作者不詳」として板書されている和歌は、万葉集の「誰そ彼と われをな問ひそ九月(ながつき)の 露に濡れつつ君待つ我そ」。
 なお、古今和歌集に収められている小野小町の和歌「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」は、「とりかへばや物語」と並んで、この作品のモティーフのひとつだ。
 立花瀧の姓である「立花」の「花」が、「葉」と対になっていることはいうまでもない。


「君の名は。」 とりあえずの論考。その②

2016-09-30 | 君の名は。/天気の子/すずめの戸締まり
 いやいや、落ち着いていきましょう。
 前回の記事は、「君の名は。」を観てきた直後のコーフンのなかで書いた。
 まあ、熱に浮かされてたようなものだ。でもって、そのままもう、勢いにまかせて、全編にわたる詳細な「テクスト分析」までやっちまおうと思っていた。当ブログの「戦後短篇小説再発見」シリーズでやってるアレである。
 しかし、冷静になって考えてみると、それにはいろいろ支障がある。まず、ぼく自身の記憶がそこまで鮮明に残ってはいない。げんに、前回の記事でも、間の抜けた事実誤認をやらかしていた(あとで慌てて訂正しました)。
 それに、もし記憶が鮮明であっても、「詳細なテクスト分析」なんて、そりゃたいへんなネタバレではないか。絶賛上映中の映画をそこまで克明に解説しちゃっていいものか……。いや、ネットの上にはとっくにネタバレが溢れかえっていて、ぼくひとりがやろうがやるまいが大勢に影響はないと思うけれども、それにしてもだ。
 なんにせよ、一回観たっきりの映画、それもあれだけフクザツな映画を、記憶だけを頼りに論じるってのも荒っぽい話にちがいない。最低限の資料は必要だろう。
 というわけで、新海誠さん自身の手になる原作小説『君の名は。』(角川文庫)と、「ユリイカ」2016年9月号「特集・新海誠」(青土社)を入手した。
 小説のほうは、省かれているシーンもいくつかあるが、ほぼ映画どおりである(正確にいえば、映画にするさい付け加えられたシーン、というべきだろうけど)。おかげで、時系列がはっきりわかった。
 「ユリイカ」は、かつてはちょっと硬派のアート系/ブンガク系月刊誌だったが、90年代の半ばくらいからサブカルにもよく手を出している。これまでにも、折にふれて、宮崎駿、高畑勲、押井守、細田守といったアニメ作家を特集してきた。
 サブカルを扱う際でも、妙にくだけたりせず、かといって固くもなりすぎず、「ストリートっぽさ」と「アカデミック」との程よい頃合いでやってのけるのがいいところである。このたびも、執筆者は知らない名前ばかりだけれど、熱のこもった論考ぞろいで、おおいに参考になった。現時点における「新海誠論集」として必携の一冊かと思う。
 これはまあ、プロによる本格的な批評だけれど、ネットには、先述のとおり山ほどの感想、分析、考察などがあふれている。ぼくももちろんその一人だが、観たあとで、どうしてもあれこれと語りたくなる作品なのだ、「君の名は。」は。
 じつはこのほかにも、角川文庫からは別の作家による公式のスピンオフ(外伝)も出ていて、ぼくはまだ読んでないけど、「裏設定」みたいなものが色々と述べられているらしい。ネットにあふれる分析や考察には、それを元にしたものも少なくないようだ。
 それはもちろん、作品への理解をふかめるうえでいいことなのだろうと思うし、たんに「知的遊戯」としても面白いかと思うけれど、ぼく個人は、あまり裏設定には深入りしたくはない。
 「君の名は。」は、「エヴァンゲリヲン」とは違うのである。観れば誰しもが心を打たれ、感動できる作品なのだ。ややこしい「謎解き」なんて必要ない。もっともっと、できるだけ多くの方に見てもらいたいので、へんな感じにマニアックになって、敷居が高くなっては困るのだ。
 とはいえ、観たあとで、すんなりと納得できないところがあるのも確かだろう。そう思い、とりあえず、多くの方が引っかかるんじゃないかと思う2点についての見解を、「ダウンワード・パラダイス(裏)」のほうに書いた。ところがあちらは、以前にすべての記事を消してしまったため、ほとんど誰も訪れてくれず、なんだか悲しい。それで、こちらに転載させていただこうと思う。
 念のために繰り返すが、これはまったく「謎解き」なんかではない。できるだけシンプルに、常識的に考えて、「おかしいな、と感じる件も、こういうふうに考えれば、整合性が見いだせるんじゃないか。」という提言である。このようなことで、あの優れた作品が軽んじられてはもったいないからだ。それでは、どうぞ。






疑問001   なぜ町長(三葉の父)は彼女の説得に応じたのか?

 この記事はネタバレを含む、というよりほとんど全部がネタバレなので、映画をごらんになっておられない方は、くれぐれもご注意ください。


 何よりもまず、圧倒的な映像美。たんに美麗というのではなく、現代日本画につうじる繊細さと奥深さ(じっさいに、現役の日本画家の方が美術スタッフのなかにおられるとか)。
 息をのむほど美しい、としか言いようのないあの光の使い方。そして完璧とも思える画面構成。
 それに加えて、アニメ映画の粋を極めたカメラワークと、編集。
 ほんとうに見事な作品だ。何度でもくりかえし鑑賞したくなる。ただ、その映像のもつ訴求力・説得力のため、観ているあいだはひたすら没入してしまうのだけど、後からつらつら鑑みると、「どうにもわからぬ」ところもある。
 たとえば「エヴァンゲリオン」や「ハウルの動く城」、あるいは浦沢直樹の「20世紀少年」が「難解」である、という意味では、「君の名は。」はけっして難解ではない。とてもストレートで、力強い作品だ。パズルを組み立てるためのピースは、すべて、ぼくたちに与えられている。ただ、「複雑」な作品には違いない。それは、時間の流れが込み入っているからだ。
 たんに「三年まえ」と「現在」とが入り混じっているためだけでなく、編集によって、時系列が入れ替えられたり、省略されたりしている。しかもそこに、「意識の入れ替わり」が絡まるのだから、ややこしくならないはずがない。
 また、町長(三葉の父)が最後の最後になぜとつぜん態度をひるがえし、町民の強制避難を敢行したか、といった、登場人物の「心理」にかかわる疑問もいくつか残る。そういった雑念がさまたげになって、この素晴らしい作品への評価が曇らされては残念なので、まことに大きなお世話ではあるが、この場を借りて、自分なりの「辻褄あわせ」をしてみたい。
 それでは、順序は大幅に前後するが、初めにそこを考えてみよう。
 なぜ町長(三葉の父)は、とつぜん態度をひるがえし、町民の強制避難を敢行したか。
(まあ、このもようは同時進行では描かれず、後からの「ニュース記事」みたいなかたちで手短に示されるのみだが。)
 これは、「時空を超えた瀧(たき)の声によって励まされた三葉が、揺るぎない意志をもって、父を説き伏せた」からだ。
 父である町長の側からいえば、「傷だらけになってもまるで動じることなく、信念に満ちて語る娘のことばを信じたから」ということになる。
 意識が互いのからだに戻るまえ、三葉のからだで、住民避難のために(テッシーと共に)奔走していた「瀧」は、いちど町長の説得に失敗し、「俺じゃだめだ……三葉でなきゃだめなんだ」という意味のことをつぶやく。
 ひとびとを救うのは、あくまでも、三葉でなければならない。瀧は、その手助けをするだけである。だから三葉が、自分のことばで、実の父親を説得したのである。
 まことにシンプルな解釈ではあるが、結局のところ、これが作品のテーマにもっとも即している。
 ただし、この点につき、あるブログで、たいへん深い解釈をみつけた。
 祖母の一葉は、「自分にも、少女の頃に≪入れ替わり≫の夢をみた覚えがある」と言い、それを聞いた瀧(からだは三葉)は、「それは宮水家の巫女に伝わる資質ではないか、今日のこの災厄を回避するために、それが代々受け継がれてきたのではないか」と考える。
 それはつまり、三葉の母(二葉)も、その力をもっていたということだ。
 では、二葉の≪入れ替わり≫の相手は誰だったのだろう。それはやっぱり、ほかならぬ町長のあの父ではないのか。
 ここからさらに進めて、その方は、このような推理を繰り広げておられた。
 そもそも父は、妻(三葉の母、すなわち二葉)の死後、なぜ政治家に転身したのか。
 それは、若き日に二葉との≪入れ替わり≫を経験するなかで、この夜の災厄を知り、そのことが、記憶の底にうっすらと残っていたせいであろう。それで、無意識のうちに町長を目指した。来るべき災厄の日に、町民を強制避難させられるのは町長だけなのだから。
 瀧が三葉のからだで乗り込んできたとき、父は「お前は誰だ?」といっている。そのあと、ほんとうの三葉が彼女じしんのからだで乗り込んだときに、父は≪入れ替わり≫に気づいた。
 正確にいうと、≪入れ替わり≫のことを思い出した。そして、自分が何のために町長の職を志したのかも思い出した。だから、ただちに説得に応じたのだ。
 ……繰り返しになるが、たいへん深い解釈である。
 とはいえ、ぼくは、これは「深読み」が過ぎると考える。「君の名は。」は、あくまでも、「三葉」と「瀧」とのお話なのだ。これだとなんだか、三葉の父母の話のほうが、ドラマチックになってしまう。
 父は、瀧が三葉のからだで最初に乗り込んできたときに、「妄言の家系か」と吐き捨てている。たしかに、二葉がこのひとに対して何かしら超自然的なことを話したことはあったのだろう。しかしそれは、彼にとっては「妄言」でしかなかった。
 むしろ、そういう迷信だの因習だのが、愛する妻の死を早めた、と思って憎んでいた節さえある。いくら「忘れてしまう」とはいっても、このひとが≪入れ替わり≫の相手とは思えないのだ。
 いや、それより何より、万が一、父が二葉の≪入れ替わり≫の相手であったとしても、彼はべつに「未来」のひとではないわけだから、そもそも災厄を知ることなどできようはずもないのである。
 だからやっぱり、最初に述べたシンプルな理由が正解なのだ。
 しかし、こんな解釈があながち牽強付会(こじつけ)とは言い切れぬくらい、「君の名は。」が豊かな作品であることは間違いがない。




疑問002  なぜふたりは、入れ替わっているあいだ、3年という時間のずれに気がつかなかったのか。

 ひきつづき、この記事はすべてがネタバレですので、映画をごらんになっておられない方は、くれぐれもご注意ください。



 それでは、多くの方が真っ先に抱くと思われる疑問、
「なぜふたりは、入れ替わっているあいだ、3年という時間のずれに気がつかなかったのか。」
 について考えたい。
 これについては、またまたシンプルすぎる回答ながら、
「入れ替わった先の生活に夢中で、それどころではなかった。」
 ということでいいのではないか。
 この作品ではスマホが大きな役割をもつが、どのスマホの画面にも、デフォルトで年度(西暦)は表示されてはいなかった。
 ぼくはまだ一回観たきりだけど、ディスクを買って穴のあくくらい見返しても、たぶん発見できないと思う。
 さらに、カレンダーや新聞など、年度(西暦)を明示するメディアも、注意ぶかく画面の中から排除されていた(追記・じつは1ヶ所だけありました)。
 テレビはあったが、それは三葉のほうの世界(3年まえ)で、「ティアマト彗星接近」のニュースを告げていただけである。
(ちなみにティアマトとは、メソポタミア神話の女神で、破壊と再生とを司るという。)
 それでもお互い、家族も友人もいるわけだし、日々の会話のなかで気づくのではないか、とも思うが、しかしなにしろ、「入れ替わり」自体がおそろしく異常な事態だし、それに伴う「まったく別の生活への適応」のほうに忙しくて、年度(西暦)に対する違和感などは、取り紛れてしまったとしてもおかしくない。
 むしろぼくなどは、そのことよりも、「せっかく日記アプリや、ふつうのノートなんかを使って情報交換できるんだから、どうしてもっと、お互いのことをきちんと伝達しておかないのか。」と、そちらのほうにもどかしさを覚えた。
 しかしこれも、ふたりの気持ちに思いを致せば納得がいく。つまりふたりは、入れ替わった先での暮らしを心から満喫していたのである。
 「東京のイケメン男子」としての生活にあこがれていた三葉はもちろん、瀧のほうも、三葉の住む地の豊かな自然に魅了され、「組み紐」のような伝統や、お祖母ちゃんの話にもつよく心を動かされていた。
 そのことは、新海誠さん自身の手になる小説版のほうを読めばはっきりとわかる。
 だからふたりは、どちらも「入れ替わり」を楽しんでいた。そして、入れ替わっている自分の行動によって、相手を取り巻く人間関係が好転していくことを、とてもうれしく感じてもいた。はっきりとそう自覚してはいなかったけれど。
 三葉のほうは、瀧が奥寺先輩と親密になっていくのを喜んでいたし、瀧にしても、どことなく萎縮して「胸を張る」ことができていなかった三葉が、周囲から見直され、一目おかれるようになっていくのを心地よく感じていた。
 だから、入れ替わり先での自分の(相手の体を借りての)行動を、けんめいに日記アプリに残したのだ。自分の情報を相手に伝えることよりも、そのほうがずっと大事だったから。
 奥底ではもう惹かれ合っていたのに、そのことにはまるで気づいていなかった。
 そもそも、ふたりが「週に2、3度」という頻度で入れ替わっていたのは、どれくらいの期間なのだろう。
 先にも述べたとおり、この作品からは「歳月」を明示するものが意図的に省かれている。だから日々の推移もはかりがたい。
 ただひとつ、明確な手掛かりとなるのが「季節」である。この映画では、すべての物や事象が異様なまでの美しさで描かれるけれど、ことに天空のもようと、日本独自の「季節のうつろい」の描写は比類がない。
 小説版を読むと、「入れ替わり」の第一日目には、三葉のほうではひぐらしが鳴いている。夏の終わりだ。そして、あの彗星落下は「秋祭り」の夜である。
 「三葉」の世界と「瀧」の世界とが「きっかり3年」ではなく「2年と数ヶ月」くらいのズレである可能性もあるが、ここではそれは黙殺しよう。「三葉」の世界と「瀧」の世界とのズレは「きっかり3年」で、時間の経過も即応していると見なす。
 だとすれば、ふたりのからだが入れ替わっていたのは、せいぜい2ヶ月弱か、下手すると1ヶ月そこそこかもしれない。
 「週に2、3度」ならば、多くて15、6回、ひょっとしたら、たかだか10回くらいのものではないか。
 しかもふたりは、最初のうちはたんなる「夢」だと思ってたわけだし、なんといってもまだふつうの高校生だし、ふたつの暮らしを行ったり来たり、何だかバタバタやってるうちに、あっという間にタイムリミットが来てしまった、というのが実際のところなのではなかろうか。