栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

三十一年後(Enomoto_Shiro))

2012年08月26日 | 植栗・榎本・大河原

 

先週、栄光同窓会の『会員名簿』が届いた。4期と6期に兄たちの名があり、41期に長男の名前がある。

 私は高校1年までしか栄光にいなかった。『会員名簿』には名前が載っていなかった。長男が入学した当時、兄が同窓会長をしており、「同窓会に入っておいたほうがいいよ」とアドバイスを受け、11期の末席に名前を載せていただくことになった。

 おかげさまで、同期の懐かしい方々にお会い出来る機会ができ、嬉しかった。 同窓会では、何十年ぶりにお会いした方でも、最初はお互いに見知らぬ熟年の顔に戸惑いはしても、次第に少年時代の顔が浮かび上がって来て、同時に「おー、○○君!」と呼び合ったりする。

 私の場合、浮かんでくるのは、諸兄の中学生時代の顔になるのだが。 自己紹介がわりに、昔(’88年)児童文学誌に書いた、栄光入学当時の思い出を寄せさせていただきます。 

 

「三十一年後…」

 昭和32年、ぼくは横須賀市立小学校を卒業、私立E学園に入学した。 E学園は、31年前の当時から有数の進学校であった。 二人の兄が在籍していたので、末弟のぼくも、受験するのを当然のように思っていて、六年生になると受験勉強を開始した。受験勉強といっても、今と違って、塾通いするわけではなく、補習授業という形で先生方が手分けして算国理社を教えてくれた。 三時過ぎに授業が終わると、七時頃まで、私立受験組の男女五、六十人が、一つの教室で補習を受けた。

 ぼくのクラスでは、TとNがE志望だった。Nは五年生から、Tは六年生になって同級になった。五年生のときはNと、六年になってからはTと親友だった。 Nは感情の激しい、わがまま勝手な奴で、よく先生に叱られていた。が、気持ちの底に繊細な優しいものがあって、皆に好かれた。 Tは頭もよければ、努力も人一倍、スポーツも得意で…と、絵に描いたような秀才。活力に満ち、高らかに笑い、いつも上機嫌。人気と人望を一身に集めていた。成績はTがダントツ、ぼく、Nの順。級長は一学期T、二学期ぼく、Nは当選せず。 スポーツは、上々のT、並のN、運動音痴に近いぼく。 

  二月初旬、E学園の合格発表の日、担任の男の先生が困惑しきった表情で教室に入って来た。先ほど、合格発表の知らせが届いたと、職員室に呼ばれていたのだ。先生はうなじに片手をあて、目を落としたまま「いやあ、N君、残念だったなあ…」と言ったきり、口を閉じてしまった。教室は静まり返り、ぼくは不安でいたたまれなくなった。 

「ぼ、ぼくは…?」 先生はチラとぼくを見て、「君たちは大丈夫だった」 あとで、Nを思いやる余裕のなかった自分がひどく恥ずかしくなった。同時に、黙して待っていたTの大きさを感じた。

  E学園に入学早々、Tは級長に指名された。多分、入試の成績と面接の印象が頭抜けていたのだろう。そのままTは、中高の六年間をトップクラスで突っ走った。相変わらず人気と人望を保ち、彼を取り巻く連中が、かつてのぼくのように彼に魅せられている様が見て取れた。 ぼくの一年生の成績は並、以後ずるずると落ち続け、高一の頃にはニッチもサッチも行かなくなっていた。

 心機一転、新規蒔き直しの決意で、アチーブメントテストを会場の公立中学に行って受け、県立高校を受験して入学、二度目の高一をやることになった。 その高校には、Nをはじめ、小学校のクラスメイトの成績上位の連中が集まっていた。入学式の日、上級生たちが整列する前に引き出され紹介される新一年生の中で、ぼくはいたたまれない屈辱感に打ちひしがれていた。Nとは、校内ですれ違ったとき、「おう」とお互い素っ気ない挨拶をかわしたきりだった。 

 高三の春、Tと道で行き会った。Tは、聞いてもいないのに「T大に落ちた」と、ハイテンションに話しはじめた。彼に慕い寄っていた連中は、皆T大に合格したという。初めて見た、Tの狼狽した姿だった。 翌春、彼はT大に入り、ぼくはBクラスの私大に入った。 

 今年一月、小学校の同窓会に三十年ぶりに出た。当時、二十代のパリパリだった先生は、定年を来年にひかえた校長先生、同窓生は四十三歳、中年まっただ中。三十年ぶりに会ったわけだが、中年顔の向こうに、六年生の顔が浮かび上がり、ジュンちゃんだのターボーといった名前が自然に口から出て来た。

 遅れて、顔も体も、太る、というより、目一杯むくんだ大柄な男が入って来た。短髪のパンチパーマ、赤いジャンパー、語尾に「ヨー、ダベ」を連発する横須賀弁——Nであった。

 細身で長身、ナイーブだった高校生のNとはまるで別人であった。ぼくの隣にどっかり腰をおろしたNに酒をつぎながら言った。「変わったね」「そうかい?」 眼鏡の奥の細い目が不満そうな色を浮かべた。その色に見覚えがあった。小学生のNが、口をとがらせ、ブーたれていたときの目だった。昔、言えなかったことを言ってみた。「高校入ったときは、辛かったな。だって、みんな、二年にいる…」

「分かってたって!」 みなまで言わせず、Nはぼくを制した。一年遅れてやってきたぼくの挫折感を、Nは十分にわかってくれていたのだ。 Nの嫁さんの名を聞いて驚いた。小学一年のとき同級だった近所の子で、いつも級長に選ばれる、美人で頭がよい女の子だった。一度家に遊びに行ったとき、二、三歳上のお姉さんが一緒に遊んでくれて、ときめいたことをよく覚えている。

 ぼくが驚いたのは、Tが彼女に惚れているのを本人から聞いていたからだ。結局、フラれたと、Tはそのとき話した。「ナンバー2が来たのに、ナンバー1がなぜ来ないの?」と誰かが言って、Tの話しになった。Tは大手メーカーに就職し、今もそこにいるという。今日まで5回転職した僕とは人生行路がまるでちがう。(ぼくが変わり過ぎなのだけど)

 彼が行った業界は何年にもわたって構造不況が続いていた。再三の厳しい合理化が伝えられた。どんな境遇でも、Tは持ち前のバイタリティと努力を傾注してがんばっているのだと思う。逗子に住んでいるのは分かっているのだが、同窓会の知らせに何の返事もないという。 小学校以来、学生時代を通じて、何をしてもかなわなかったあいつ。Tはどんな嫁さんをもらい、どんな家に住み、といった俗っぽい興味がある。住所を見ると、枝番がついているので、マンション住まいだ。ぼくと同じ。 Tは戦争で、ぼくは病気で、共に父親を早々に亡くし、母親の手ひとつで育った。

 ただ、Tはひとりっこ、僕は男ばかり四人兄弟の末っ子、と家庭環境はおおいに違った。Tの家によく遊びに行ったが家庭での彼は母親や祖母に命令口調でものを言う、小さな王様だった。人間的に大人を感じていた彼の、打って変わったわがままぶりに溺愛されている姿を見て、彼がますますまぶしく見えた。

 ぼくの母は、戦後の混乱期を財産もなく四人の男の子を育て上げるのに必死で、おまけに体も弱く、子をかまうどころではなかった。我々兄弟もそういう母親をよく分かっていたから、幼いうちから何でも自分でやった。ボタンつけも洗濯も、自分でやった。それが当たり前だと思っていた。

 中年の今、速い流れに巻き込まれて懸命に手足をバタつかせている実感がある。もがかなければ溺れてしまうし、いくらもがいてもどんどん流されてしまうし、背中には家族やら仕事やらがびっしりのっているし。

 といった塩梅の暮らしの中で、同窓会は鮮明に来し方を思い出させ、人生を俯瞰させてくれた。小学校卒業をスタートラインとすれば、どんなコースをどのように走ってきたのか、振りかえらせてくれた。

 お互い話しているうちに、お前もがんばってるんだなあ、とセンチな酒になってくる。二時に始まった同窓会は、十一時過ぎに、ようようお開きになった。

 

 ◆ 写真は、企画編集した『女性宰相待望論』(自由社刊)の出版記念パーティ(ホテル・オークラ)

          

        女性宰相候補議員達

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 栄光11期ゴルフ大会(2012年・... | トップ | 近況報告(Ookubo_Takehiko)) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

植栗・榎本・大河原」カテゴリの最新記事