栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

若かった頃の思い出(ニューギニアの巻 (第 8話)名コック・ピーター(Okubo_Kiyokuni)

2013年09月29日 | 大久保(清)

 第8話 名コック ピーター 

我々の宿舎には飛び切りのコックがいた。名前はピーター。前に務めていたお屋敷の日本人の奥さんが仕込んだとの事で、料理がめっぽう美味い。日本食、洋食は完璧。この証拠はあとでお知らせするが、朝昼晩全部揃えてくれる。昼食はオーストラリア流で、事務所から家に帰って食事をする。いつでも、出来立ての料理で、メニューも豊富。事務所は朝7時30分から夕方4時までであるので、4時30分に帰宅すると、週の料理担当は、ピーターを連れて、街のスーパーに買い物。スーパーの品物は、殆どオーストラリア本土よりの輸入品が殆ど。野菜・果物等の生鮮品・冷凍品・缶詰類、日本のマグロ船も入る魚市場からの魚類とかなり品数は豊富である。金さえあれば、美味い食材は手に入る。

 まず、高級魚類のマグロ、ひらめ、更に海老等を買い、冷凍の牛肉・鶏肉をブロックで買い、最後に、野菜・果物、ワイン・ビール等を買い込み、大型カート2台分積み込み、例のランドクルーザーでご帰還。この後は、ピーターの独壇場であるが、日本食が食べたいナーといっておけば、マグロ・白身の魚は刺身、骨付き部分は“おすまし”で無駄なく美味しくいただける。これに、卵料理と、野菜サラダ、文句ないでしょ。デザートはマンゴプリンとメロン。他にアイスクリーム。勿論、コーヒー・紅茶、日本茶お好きなように。

通勤は、ランドクルーザーで20分、残業は基本的にない、何せ、オーストラリア人は設計計算の途中でも、4時になるとピタリと鉛筆を置き “シー・ユー・オン・マンダーイ”の世界。皆太る。週末のゴルフで汗をかかないと、設計作業が始まり、現場が遠のくと肥満体質は免れない。

 

この名コックピーターは宿舎の裏の掘っ立て小屋の一人住まいであるが、この頃、彼女らしき人が居座っている。誰だーいと言っても、ニヤニヤして答えない。2-3ヶ月経ったある日、彼は神妙な顔で、少しや休ませて欲しいという。後で判ったのだが、女の主人が今様のドメスティックバイオレンスで、彼女が幼なじみのピーターの家に逃げてきたが、これは、客観的に言えば、人妻を略奪した犯罪となる。そこで、かれは、刑に服することになったのだ。かなり複雑な状況なので、日本人は深入りせず、見守り、牢屋には色々付け届けを続けた。牢屋は薄暗く、4-5人の雑居部屋であった。数ヵ月後に、放免されたが、元気は無くなった。その後、我々の宿舎は帰国者が増えた関係で閉鎖され、別の小さな宿舎に移る。当然、食事の質は、がた落ち、毎日、ソーセージとオムレツ。彼に代わるコックはいないとのみなの共通認識。

 その後色々あったが、20年後にポートモリスビーを再訪する機会があり、昔の情報を集めていると、ピーターはまだ健在で、何処かのホテルで働いている由。ポートモリスビー一の帝国ホテルに泊まり、昔、オーストラリア人たちと日本人達で働いていた時代のことを、マネージャーにかたり、ピーターという名コックがいて、皆幸せだったと喋っていると、マネージャーは、多分、そのピーターはうちのチーフコックかも知れないので、ちょっとと呼んでみようという。

 厨房のドアが開き、頭も白くなった老人がこちらを覗いている。もしかしたら、ピーターかもしれないと、こちらも覗き込む。数秒、目と目が絡んだ。少し間を置いて、目に涙を浮かべながら老コックは私のテーブルに近づいてきた。間違いなく、ピーターだ。二人で顔を確かめ合って、握手。彼も、昔の若者の顔を懸命に思い出している。今日、私の食べた料理は昔の味。考えてみれば、帝国ホテルのコックをまかないに、毎日三度三度、当たり前のように、なんて幸せな時代であったのか。この状況をもっと美味く表現したいが、少し無理なので、ここでピーターの話しは終わる。

    

    (中央が大久保君、左がピーター、右はダム設計チーフ)

コメント
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