そう、本殿に祀ってあったのは、いわゆるお稲荷さんでしたが、本堂のほかに法堂があって、そこにご本尊があるのをあとで知るのです。そして、この本尊が仏様でした。つまり、豊川稲荷は、室町時代(1441年)に東海義易によって創建された正式名称を円福山豊川閣妙厳寺と正真正銘の曹洞宗のお寺であり、神社ではなかったのです。妙厳寺は「千手観世音菩薩」をご本尊とし、その守護神として「 枳尼眞天(ダキニシンテン)」を祀っているのです。先般記載した大鳥居の奥の本堂には、この 枳尼眞天(ダキニシンテン)が祀られ、ご本尊の「千手観世音菩薩」は、総門の奥の山門をくぐった法堂にあるのです。「豊川稲荷」と呼ばれているのは、本堂にあるこの 枳尼眞天(ダキニシンテン)のことです。この「 枳尼眞天」は、なぜお稲荷さんなのかということですが、鎌倉時代、東海義易の師の寒厳義尹が、宋からの帰朝の折り、海上に妙相端麗、稲穂を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨る姿の霊神が現れたので、帰朝後、その姿を手ずから刻み守護神として祭られたのが、豊川稲荷のゆえんとなりました。ひらたくいえば、真言密教でいうダキーニという神通力の神と民間の狐神信仰が結びついたといわれています。それを裏付けるように、境内住んでいた平八狐を祀ったという俗説もあるほどです。
でも、私が興味があるのは、明治元年の神仏分離令をどう、妙厳寺はどう切り抜けたかと言うことです。つまり、「 枳尼眞天」という神を別に祀る神社をつくれという明治政府に対し、妙厳寺側は、本尊の千手観世音菩薩を守る仏法守護の善神で一体だということを全面的に主張し、切り離せないということを認めさせたのです。この主張を寺院側が通さなかったら、今の豊川稲荷はなかったのでは。江戸時代には、有名人である大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受けるとともに商売繁盛の神として庶民からも信仰されるようになります。京都の伏見稲荷大社は稲荷神社の総本山であるが、豊川稲荷は神社ではなく、上記のように寺院であり、信仰対象としての豊川稲荷は、ある意味で別格本山ではないでしょうか。写真は 枳尼眞天(ダキニシンテン)を祀ってある本殿です。次回は、1000体以上の狐の像を祀ってある霊狐塚を紹介します。
でも、私が興味があるのは、明治元年の神仏分離令をどう、妙厳寺はどう切り抜けたかと言うことです。つまり、「 枳尼眞天」という神を別に祀る神社をつくれという明治政府に対し、妙厳寺側は、本尊の千手観世音菩薩を守る仏法守護の善神で一体だということを全面的に主張し、切り離せないということを認めさせたのです。この主張を寺院側が通さなかったら、今の豊川稲荷はなかったのでは。江戸時代には、有名人である大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受けるとともに商売繁盛の神として庶民からも信仰されるようになります。京都の伏見稲荷大社は稲荷神社の総本山であるが、豊川稲荷は神社ではなく、上記のように寺院であり、信仰対象としての豊川稲荷は、ある意味で別格本山ではないでしょうか。写真は 枳尼眞天(ダキニシンテン)を祀ってある本殿です。次回は、1000体以上の狐の像を祀ってある霊狐塚を紹介します。