布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

江戸時代うなぎはまるごと食べた?(うなぎ道)

2006-12-19 | 歴史
江戸時代、うなぎは生きたままでないと商品価値はなかったそうで、利根川でとれたものでも手賀沼でとれたものでも、どう生かして運ぶかの工夫が必要とされました。うなぎは大体1時間おきに水に浸さないと死んでしまうそうです。運び先は、江戸川沿いの加村(現在の流山市役所の周辺)の「やっからの渡し」で、そこまで馬で運びますが、約14キロあったそうで、所要時間は3時間。そこで、2カ所のうなぎを浸す場所が必要となり、柏の高田と流山の野々下に浸す場所を設けたそうです。念のため、その運ぶルートは、手賀沼産は呼塚河岸~篠籠田~高田~駒木~野々下~加村まで、利根川産は布施河岸~宿連寺~松ヶ崎~高田であとは同じです。
さて、布施河岸でうなぎの運送をはじめたのは、1757年(宝暦7年)で、この年の9月からの3ケ月間に、20の船がうなぎを陸揚げしたそうです。布施河岸の最盛期の寛政年間(1789~1800)には、1年に約8百の船からうなぎが陸揚げされたといいます。
なお、なぜ、水切り場というと、うなぎを生き返らせるために水に浸し、そして、すくい上げ、水を切って運ぶ場所なので、「水切り場」といわれたそうです。
写真は高田の水切り場(高田近隣センターの裏の方)ですが、今はその面影もなく、唯、見晴らし台というかデッキというか、そこにポツンとうなぎ道の看板(写真の左の白っぽいもの)があるだけです。なぜ道路の近くではなく、大堀川沿いにはあるか変なんですよ。近くに新鮮な清水等の水源はありませんし、また、水替え宿らしき人家もありませんでした。教育委員会の看板があるところとは、実際の場所はちがうのかな?なお、この水替え宿は、ただではなく、馬1駄2文だったそうです。
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