とりあえず一所懸命

鉄道の旅や季節の花、古い街並みなどを紹介するブログに変更しました。今までの映画や障害児教育にも触れられたらと思います。

『気狂いピエロ』1965

2006-08-16 23:11:04 | 映画

 邦題が『気狂いピエロ』という今ではとってもつけられないタイトルのDVDを観ました。ご存じジャン・リュック・ゴダールが監督です。

 この映画は確か大学浪人の時、東京の名画座で『勝手にしやがれ』と二本立てで観たと記憶しています。頭でっかちの映画好きの友人と観て、帰りの喫茶店でずいぶん議論したものです。

 当時田舎から出て来て都会にあこがれて、一気に染め上げようとした跳ね上がりの頭にはこの難解なストーリーが気に入ったものです。「これがわからないなら映画は語ってはいけない」と友人に語っていたことが恥ずかしく思い出されます。

 ゴダールの映画は本当に難解です。ストーリー自体は至ってシンプルなんだけど、人物の心中を理解したり、劇中の会話を理解するにはなかなか骨が折れます。

 この『気狂いピエロ』もやっぱり骨の折れる作品です。でも、どこかにもう一度観てみたいという気持ちがあった映画です。若い頃に観た映画のほとんどはもう一度観てみたいと思う作品が多いのもあの頃の感性のなせる技なのかもしれません。

 60年代から70年代初期にかけてはゴダールの人気は絶大だったと思います。頭でっかりの若者たちによって圧倒的に受け入れられていたことも事実です。大島渚の映画などは、どの映画もかなり影響を受けていたのではないかと思われます。最近の邦画の『69(シックスティーナイン)』でも、妻夫木扮する主人公が「ゴダールのごとか、映画を作りたい」と友だちにうそぶく場面が出てきます。相手を圧倒させるには、ゴダールの名前をかたらなければいけない時代だったのでしょう。

 学生の時に、「マルクスの経哲手稿では…」とか、「フロイト的な発想から言えば…」とか、相手を煙に巻くために、難しい名前と理論を借りてきてしゃべっていた時代が蘇ってきます。

 この『気狂いピエロ』はDVDショップで中古で買いました。買ってすぐに観るには、心の準備ができていないので、夏休みまで観ませんでした。やっと少しだけ心に余裕ができたので観ることにしました。

 フェルディナン(J・P・ベルモンド)は金持の妻と子どもとの生活にうんざりしている性格的に問題のある人間です。いつもくわえたばこで、詩集を読んでいる社会を斜に見るようなそういう設定です。

 ある夜彼はパーティで昔馴染の女性マリアンヌ(A・カリーナ)に出会い、一夜をともにします。翌朝、目覚めた彼は彼女の部屋に、首に鋏を突きたてられて死んでいる見知らぬ男の死体を見つけます。でもマリアンヌは一向に気にする様子がなく、口笛を吹きながら朝食をつくります。「わけはあとで話すから」と、彼女に手をとられた時フェルディナンはごく自然に彼女と行動を共にし、パリを逃げ出す決心をします。

 そこからフェルディナンとマリアンヌとの奇妙な旅が始まります。それは、決して安息への旅ではなく、いつか破滅に向かうことが予想される旅でもあります。

 ロードムービーでもあり、ミュージカルでもあり、詩作の映画でもあるという不思議な映画なのです。理性で語ろうとする男と感性だけで生きようとする女とのすれ違いも描きながら、不条理の象徴である首にはさみが突き立てられて殺される二つの死体。一つ一つに意味があるのだろうかと考え始めると、長くなってしまう、そんな映画です。

気狂いピエロ

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