季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

マージャン

2009年03月20日 | その他
先日本当に久方ぶりにマージャンをした。まあマージャンに付き合ったといったほうが適切だが。

マージャン荘の閉店が相次いでいるのだという。なるほど、都心の大学が近くにあるマージャン荘だったにもかかわらず、客といえば我我4人だけ。以前この店に来たときはもっとたくさんのテーブルが埋まっていたなあ。報道が本当のこともたまにはあるんだと妙なところで納得した。

夕方近くに大学生のグループが5,6人来たから様子を伺ってみたけれど、他愛もない話をしながら淡々とゲームを進めて、あっというまに帰っていった。

僕たちのようなおじさんになると、どうしても話の方向が決まってくる。しかも僕も含めていずれも真面目な奴らだ。

自分の手に一喜一憂しながら、話が何かの拍子に若い人たちがコミニュケーションがとれない、とるのが下手だというところに行き着いた。

ひとりが「テレビゲームばかりしているから」と言えばもうひとりも「そうだよ、あれは良くない」と熱を込めて話し、直後にゲームが緊迫し、話し以上に熱を込めて頭をフル回転させる必要が生じたため、この話題はそのまま沈静化した。

僕はその場で異論を唱えることも出来たのだが、議論のためにマージャン荘に金を払うのも業腹だから、そのままにしておいた。今その時感じたことを言っておく。

誰にでもイメージというものはある。それにはある種の根拠すらあるけれど、これは結構物事を見るのに邪魔になる。

テレビゲームに熱中する子供たちというイメージは新聞、テレビでいやというほど植えつけられている。子供たちがゲームをする姿を見て、自分たちが小さかったころは外で駆け回っていたものだ、と情けなく思う大人が多いのだろう。

しかし、それとコミニュケーションをとるのがへただという「観察」を短絡させるのはいけない。

いくつか疑問点を列挙しよう。

テレビゲームがコミニュケーションをとることが苦手な人間を造るというのは本当か。

そもそもテレビゲームに熱中している子供がイメージどおり大勢いるものか。大いに疑問だ。

コミニュケーションをとるのが苦手なのは若い人に限られるのか。

テレビゲームがはじめて出来たころ、僕は面白くてずいぶんやったことがある。当時は機械の能力なぞ知れたもので、僕の能力ははるかに上回り、機械が止まってしまったことが何度もある。

でもすぐに飽きてしまい、それ以来していない。時折車のゲームをしてみると、まあ難しい。ある時期はパソコンでマージャンゲームもしたが、機械がいかさまをしているのでは、という疑念が晴れず(どうです、疑念なんて書くと偉そうでしょう?)今ではやらない。

マージャンはたしかに4人がワイワイ騒ぎながらするけれど、これをコミニュケーションというのは寂しすぎる。音楽家の集まりの中でコミニュケーションがあるのか、本気で話をしている人がいるのか?この問いになれば無いと答える他あるまい。

きっと会社に勤めていても同じだ。若い人がコミニュケーションをとるのが下手だというのも、僕の観察によると、おちゃらけた奴は所謂コミニュケーションをとるのが滅法うまいが、ごく普通の人ほど下手に見える。

ということは当り障りの無いことを喋り散らすことは上手くない人が増えたということだろう。少なくとも僕の眼にはそう映る。

何だか長くなりそうだ。マージャンと同じでダラダラ続きそうだ。いったん止めておく。もう半チャンいくぞ。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« シュヴァルツコップのレッスン | トップ | マージャン 2 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
話下手 (伊藤治雄)
2009-03-21 00:03:30
続きを読んでからの方がいいのかもしれないが、ちょっとコメントします。

私は若い人以上にコミュニケーションをとることが下手ですよ。
 当たり障りのないことなんて、話しようがなくてね。口数の少ない、おとなしい奴、と人から思われているだろう。世間話は苦手で、話題を探すのに苦労する。まして、人の気をそらさぬ語り方などできやしない。それでも生活に支障がない程度には話せてきたから、よしとしよう。しかし、自分に関心のあることについては真剣に対話したい、といつも思っている。
 上の世代が若い人のことをいろいろ批判するにしても、若者をそのように育てたのは自分たちなわけで、批判はブーメランのように返ってくるんだな。
返信する

コメントを投稿

その他」カテゴリの最新記事