季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

腑抜け

2013年12月11日 | 音楽
ピアノの演奏で生理的にも受け付けないことがある。「うまい」演奏であればあるほど鼻につくとさえ感じる。

それはフレーズの最後でスカッと抜けた音になることである。これがやたらに多い。

ピアノの世界では次から次にそうした演奏がなされる。

載せた写真はシューマンの献呈である。
シューマン全集の最初にあるから選んだだけで、他の曲でも一向に構わない。

Du meine Seele,du mein Herz
で一区切り。このメロディをピアノで弾くとまず殆どが、そして次の節の最後、Schmerzのところはディミヌエンド記号があるからまず100%が弱々しく弾かれる。

でも歌手は絶対そうは歌わない。この曲の場合、最も強く歌うとは言えないだろうが、HerzとSchmerzは意味からして腑抜けの音になってよいはずがない。意味だけではない。この語が韻を踏んでいるから、それを味わうことが大切だ。

Schmerz(痛み)に至ってはディミヌエンドにも拘らず如何にこの語のニュアンスを伝えるか、歌手の力量が問われるところでもある。(因みに、歌曲において所謂強弱記号は頻繁に見られるわけではない)

ピアノ奏者は小さい頃からフレーズの最後は小さく、と繰り返し教わってくる。

しかしそれはまずい。音楽において、写真の例で分かるようにフレーズ最後やそのひとつ前の音が力無く感じられることは無いと言っても良い。

ぜひ手に入る様々な歌曲を歌詞と共に見てもらいたい。「詩人の恋」でも「冬の旅」でも良い。

ピアノ曲のメロディだってまったく同じように感じていかないと腰が据わらないのである。

歌曲を例に取ったのは歌詞があって説明に便利だからであって、本来はあらゆる曲が感覚的に正しく取られるべきことだ。

それなしに長いフレーズとか、「盛り上がり」とかは不可能ではないか。

最近の(日本人の)演奏が叙情的な所では何とも腰が据わらない、薄っぺらに聞こえる理由のひとつはここにある。

解せないのは、この曲をリストがピアノソロに編曲していて、それを弾くピアニストは相変わらず語尾を抜いて腑抜けにしてしまうことである。

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