季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

命の教育に続きがあった(ブタがいた教室)

2008年12月04日 | Weblog
ちょっと前に教室で豚を飼っていた学校のことを非難した。そうしたら今日生徒から、その美しい話は「ブタがいた教室」という映画になっていて、ふたたびニュースで取り上げられたと聞いた。

僕の意見は重複するだけなので繰り返さない。記憶がいい加減だったことも判明した。「花子」なんて書いたが「ピーちゃん」だった。

件の教師はその素晴らしい授業成果をひっさげて講演会に忙しいという。事業成果の間違いかと思ったがね。

報道によると、自分の「教育」のもたらした結果に自ら感動していたそうだ。それは分かりきったことだから捨てておく。子供たち、今や大人になったかつての子供たちの中には、素晴らしい体験だったという人と、顔にモザイクまでかけて、今でもどうしたら良かったのかとトラウマになっているという人とが混在するという。

これも予想されたこと。

命が大切なことはいうまでもない。僕自身はそれを「教える」ことなぞ必要ないと思うけれど。面倒なのはそう発言すると、僕が(あるいはそう発言した人が)命は大切ではない、と言ったように曲解するおっちょこちょいが必ず出ることだ。

「教える」ことが大切だと力みかえる人は、よく考えて欲しい。こうしたことは教える性質のものかを。人を好きになることと同じように、ひとりでに覚えるものだろう。そこでは感受性だけがものをいう。これなくして命なんて分かるものか。うそ臭い友情、団結、片方でそんなことをしながら豊かな感受性を育む教育を標榜するのだろうか。

もうひとつは、もしも教えなければならないものだとして、是が非でもこういった方法を採らなければならないのか、ということ。宮沢賢治の「なめとこ山の熊」でも読ませておけばすむだろう。徹底的な討論だけでもすむかもしれない。

いや、実地でしなければ効果はない。なるほど、では危ない場所に行ってはいけない、と教え込むより危ない場所に行かせるほうがよっぽど教育的だろう。やってみたらいいじゃないか。

精肉業者がどうやってつぶすかまで見せたらいいじゃないか、そんなに実地実地と騒ぐのならば。

仮によく効く薬があったとする。たいへん効果はあるが1割程度、副作用で死者が出たとしよう。死者ではなくてもよい、重篤な副作用でもよい。社会的大問題に発展するだろう。トラウマになっている生徒が仮に数人だけ出たとしても、負の副作用が出ているわけだ。それを捨てておいて、なにが命の教育だ。偽善にもほどがある。

僕は平等とか自由という言葉が嫌いである。ここでも間違えないでもらいたい。こういう種類の言葉は、人前で滔々と口にするものではない、口にしただけでうそ臭くなってかなわない、という意味だ。それを口に出す人の口調による、と言っても良い。

ここまで書いて検索をしたら、その教師は今、さる大学の教授だか、准教授だかになっていた。顔を見て声も聞いたが、少しの迷いもない単純な声である。僕は人を声で判断する。

記者の理想的な教育者像とは何か(この質問自体、この国にありがちな陳腐なものだが)という問いに遅疑なく「それについては自分にはかなりはっきりしたものがある。自立した人を作ることだ」と答えていた。ご立派ですと答える以外ない。

信念というものは頭に宿るのではない。頭に宿っただけの人は声でわかる。この人もクラスでピーちゃんの処遇を討論しているときに涙を見せる。だが、これはセンチメンタルな涙だ。

福沢諭吉に「痩せ我慢の説」という文章がある。勝海舟と榎本武揚に対する疑義を表わしたものだ。生前発表はされずに、ただ対象の二人に示されただけだった。

榎本武揚に対して福沢は言う。
函館五稜郭にあなたに従って立て籠もった兵士たちは、新政府に異議を唱えるあなたを慕って死んでいったのである。それなのにいったん投降した後に新政府の高官に取り立てられるのはいったい義があると言えるであろうか。なるほど人は時が経つにつれ意見が変わることもあろう。

しかし自分に従って命を捨てた人を思えば、新政府の要職を請われたといえども、また自分にその職を全うする能力があると自負したとしても断るのが人の情であろう。あなたはそれについてどう思うか。

簡単に言えばこういうことだ。きわめて簡略な、福沢という人の心の動きを伝える文章である。

僕は件の教師が今は大学教員に「昇格」したのを知ったとき、すぐこの文章を思った。この人が本心から教育現場において子供と接し、生命について語り続けたかったのであれば、断固現場に残るべきであった。本当に子供とともに迷ったのであれば、是非はともかく、今も小学校に留まっていたであろう。

僕のこの意見はこの若い人に対しては厳しすぎるのを承知する。ただ、この種の話に表面上の感動を覚える人に対し、また、この人が教員を目指すより若い大学生に自らの体験を素晴らしいものとみなして必ず見せていると言うのであえて書く。

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命の教育 (伊藤治雄)
2008-12-04 23:11:45
命の大切さは、学校で教えるものではなく、子供が自分で知るものだというのは、その通りだと思います。

私の子供の通っていた近所の公立小学校でも、教科外の「総合的な学習の時間」で「命の教育」を行なっていた。ブタこそ飼ってはいなかったが、学年毎にテーマを設けて、命の大切さ、かけがえのなさを学ぶカリキュラムが実施されていたようだ。特にうそ臭いとも思わなかった。うそ臭いと言えば、道徳教育なんてみなそうだし、学校とは公共道徳みたいなものを教える所だから、それを怪しみもしなかった。
 神戸の酒鬼薔薇事件以来、子供による残虐な犯罪や、子供が巻きこまれた殺人が続いて、メディアで取り上げられたりしたからね。いや、子供ばかりじゃないな。大人の方こそ残忍冷酷に人を殺している。それで、先生方も教育委員も改めて「命の教育」に取り組むことに意義を見出したのかもしれない。
 命が大切なのは至極当然のこと。これに反対することは、まあ少なくとも子供にできることではない。それを道徳教育は屋上屋を重ね、お題目のように、これでもか、これでもか、と子供の頭にたたき込む。果たして効果があるのか。子供達の学習発表などを聞いていると、私も疑問に感じる。なぜって、子供達はお題目を言わせられているだけのように思えてしまうから。彼らが本当に心に感じていることは何なのだろう。

安部公房の『榎本武揚』を思い出しました。あの小説でも、榎本は権謀術数を用いることに躊躇しない冷酷な男とされていたようだが…。
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