季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

シュヴァルツコップのレッスン

2009年03月16日 | 音楽
この人のレッスンは本当に素晴らしかった。彼女自身の歌ももちろんだが、引退後のレッスンも、おそらく演奏界全体を見渡しても比類のないものだった。

と言ったものの、残念ながら僕は実際に聴いたわけではないのだ。はじめて耳にしたのは(目にしたのは?)70歳の記念番組だった。

歌手シュヴァルツコップしか知らなかった僕は、教師シュヴァルツコップの偉さにはじめて接し、感動した。なんと言うか、音楽にかけるとてつもない熱意とでもいうものが、そこにはあった。

大きな声と響いた声とは違うのだ、と彼女は同じ番組のインタビューでも力説していた。それは僕自身がピアノで苦労していたことであり、また、現代の歌手に感心しないことも多かったので良く分かった。

それよりはるか以前、彼女が「美しい声というものは音楽の邪魔になる」と発言しているのは知っていたし、その意味はなんとなく呑み込めていたが、このレッスンを聴いていてそれを思い出さざるを得なかった。

美しい声を持っているとそこに寄りかかって、表現や声自体を磨くことに関心が向かなくなるということだろう。声自体を磨くとは美しい声を得ようと務めることであるから、自己撞着のように思われるだろう。

この場合、美しい声とはある曲、ある箇所を「適切な」表情で歌うという意味である。

所謂美声の持ち主はそれだけでもう表現しているような錯覚に陥る。シュヴァルツコップのいう真意は、こういうことなのだろう。

この人のレッスンはおよそ徹底している。映像を持っている人は時折映し出される姿を見てもらいたい。このような真剣な顔はそうかんたんにお目にかかれるものではない。

全身が耳と化しているようにさえ見える。そして指摘する正確さと執拗なまでの執着心。

ここまで厳しい耳を僕はそう何人も経験していない。その上で強調しておきたいことは、レッスン自体に高圧的な雰囲気はまったくないということだ。

僕が持っている映像はザルツブルグのサマースクールの模様である。こんな高名な人のレッスンというのに、生徒の質は決して高くない。有り体に言えば低い。聴衆も実に少ない。いったいどうしてだろうと訝しく思えるほどだ。

にもかかわらず、彼女は手を抜くということをしない。これに一番感動する。見るたびに「こんな光景は日本ではありえないな」という声が僕の中でして、これにはちょいと困る。

話が前後するようだが、厳しいのはシュヴァルツコップの耳だけであって、講習会の雰囲気自体は緊張感のなかに笑いや余裕がある。生徒が未熟なのにもかかわらず臆せず質問を発したりするのも羨ましい。

厳しいレッスンというのはこういうのをいうのだ。生徒にきつく当たることではない。書いてしまうと、またこれを読んだ人には当たり前すぎるように聞こえるだろうが、なかなかできないことなのである。

時々レッスンで大変辛い目に会ったとか、罵倒されたとかいう話が耳に入ってくる。僕は遠慮がちな人間だ。だから時々、と書いているけれどね。

かつての日本の有名教授が「何を言ってよいか分からなかったら怒鳴りつけりゃいいんだ」とのたまわった話も笑える。あまりに正直で笑える。

シュヴァルツコップは(と急に戻すのも彼女に失礼な話だね)怒鳴る暇なんか無いだろう。言わねばならぬことは次から次にやってくる。

ハンゼンだってそうだった。ふつうに傍からみれば機嫌のよい優しい爺さんだった。

この映像は市販されているはずだ。見たことの無い人はぜひ見るとよいと思う。日本語訳が時折ひどくて理解しにくいところもあるけれど、それでも凡その見当は付く。





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