もう少し言葉を補っておきたい。僕が趣味、好みの多様性を否定していると受け取る人がいないとも限らないから。
演奏とは声の出どころのようなものかな。僕はクレンペラーの演奏にさほど共感しないが、巨木が根っこから揺すられるような音は、腹の底から発せられた言葉と似ている。あえて似ていると書いたが、まったく同じものだと言ってよい。ワルターやフルトヴェングラーにしてもそうだ。そういう声のみが所謂クラシックという音楽には必要なのだ。
いや、ここでもあえて論を乱すように書くならば、様々のジャンルの音楽が腹の底からの声に支えられている。演歌しかり、ハードロックしかり。
ではクラシックと呼ばれる音楽に必要な声は何か。言うまでもないが、ベル・カントに代表される響である。
僕が小澤さんをまったく評価しないのは、彼の声が腹の底から聞こえず、ずっと浅いところから出ているのを感じるからだ。それを響きがないと言っても差し支えない。吉田さんにしても、どこかに決定的な差を認めるから、前述のような論評が出てくるのだろう。せっかくそれを聴きわけていても、演奏の価値は一様ではありえない、できるかぎり秀でたところを探したい、新しい感性をみつけたい、という「善意」が正直な耳を邪魔する。そしてそれを「解釈」とか、リズム感とかに分解して理解しようとする。
ふいに昔ラジオで小澤さんと吉田さんの対談を聞いたことを思い出した。僕が覚えているのは、小澤さんが「先生、日本人って音楽好きなんでしょうかねえ?」と訊ねたことだ。僕はそれを聞いて小澤という人は幸せな人だ、と思ったのでよく覚えているのである。僕はといえば、この問いに対する否定的な答えを得た上で選んだ道だったから。
吉田さんがそれについてどう返答したか、もう覚えていない。ただ、吉田さんの声は優しくというよりは弱々しく、あいまいに、そんな難しいことを軽々には断言できないのだよ、といったことをつぶやいていたように記憶する。そのとき僕は、ああ、吉田さんは小澤さんが可愛くて仕方ないのだな、と思った。
この稿を書き上げようとしてコメントが目に入ったので、あちこち順序を入れ替え、手を加えしていている。
フルトヴェングラーと小澤を同時に賛美することは不可能だというのが僕の前回の記事の要点だ。これに首をかしげる人が多いのは承知の上である。いわゆる好みの問題ではないと繰り返しておく。その上で、耳は意見や正論にいつでも従うとは限らないことを再度言っておきたい。
簡単に言えばこうだ。ベートーヴェンの交響曲をある時には荘重な気持で演奏する、他の時は軽いのりで演奏する、という演奏家はいないだろう。(ベートーヴェンの音楽を好まないという人がいるのは当たり前のことで、それはちっとも構わない。むしろ価値観、好みが多様なのは健全な証だ)
演奏家のみならず、聴く人にとっても事情は同じだ。あるときは重厚な「英雄」を、またあるときはポップス調の「英雄」を好むということが起こりうるとは考えにくい。
もっとも、最近ではクラシックと○○のコラボレーションだのが流行ってはいるけれど。しかし、この時クラシックの楽曲は感動という言葉が出るような感じ方から、最も遠い位置にいるのはたしかだ。何の芸もない、むしろ気の利かぬ退屈な楽曲さ。メロディーは「貧弱」だし、和音も田舎くさい。ためしに「英雄」のテーマでも鼻うた調でやってごらんなさい。ミーソミーシミソシミーなんてバカ丸出しではないか。面白くも可笑しくもない。
こうした曲を支えるのは、ただただそれに相応しい音質だとしかいえない。
あるべき姿などとうっかり言おうものならば、姿は固定化されたものではない、と返ってくる。僕もここはじっくりと言葉を探さねばならないのだ、本当は。こんなに駆け抜けるように書いてはならないはずだ。
しかしもともと音を、音楽を言葉で話すこと自体が無理なのだ。無理を承知で試みるけれども、言葉で表わそうとすれば理屈が通ったほうが有利なのである。僕はただ、音を言葉で表わすには無理がある、人が今聴いている音は音楽に必要な音からはかけ離れてしまっている、ということを繰り返す以外に術がない。
曲の解釈という言い方も本当はまずい。この曲は心を打つ、あるいは素敵だ、何でも良い、それくらい簡単なことでもあるのだ。解釈なんていうととても立派にきこえるけれど。よい声だ、と思うときにその声を解釈なぞしないわけで、その歌い手が解釈しているつもりなら、勝手にさせておこう、という聴き方が一番よい。
以前にも書いたが、素人の歌声を訓練され完成された歌声と区別するのは容易である。僕の中には歌曲への解釈は山ほどあるのに、また歌手のそれより心理的に、音楽論理的に等あらゆる面で勝っているかもしれないのに、ものの役にもたたない。当然のことで、不満があれば歌唱法を習えばよい。
小澤さんには音楽に必要な声がない。小澤さん、と書いたが、本当は僕にとっては誰でも良かったのである。これは吉田さんが挙げた名前で、僕たちにいちばん親しい名前だから取り上げたに過ぎないのだ。
オーケストラは曲がりなりにも出来上がった奏者から編成されているから聴きわけるのが困難である点、ピアノと似ている。聴き手は少なくとも音楽はあると決めている。果たしてそうか?
前回のコメントへの返事で書いたとおり、例えばピアノはもう製造が困難なほど追い込まれている。ちょっとでも経験ある技術屋はだれでも認めている。そして古い上質の楽器を扱える奏者が極めて少ないことも。これを批評家のせいだ、と言っているのではない。演奏家たちが自らまいた種だ。
どうにも収まりがつかないね。もう少し続けましょう。
演奏とは声の出どころのようなものかな。僕はクレンペラーの演奏にさほど共感しないが、巨木が根っこから揺すられるような音は、腹の底から発せられた言葉と似ている。あえて似ていると書いたが、まったく同じものだと言ってよい。ワルターやフルトヴェングラーにしてもそうだ。そういう声のみが所謂クラシックという音楽には必要なのだ。
いや、ここでもあえて論を乱すように書くならば、様々のジャンルの音楽が腹の底からの声に支えられている。演歌しかり、ハードロックしかり。
ではクラシックと呼ばれる音楽に必要な声は何か。言うまでもないが、ベル・カントに代表される響である。
僕が小澤さんをまったく評価しないのは、彼の声が腹の底から聞こえず、ずっと浅いところから出ているのを感じるからだ。それを響きがないと言っても差し支えない。吉田さんにしても、どこかに決定的な差を認めるから、前述のような論評が出てくるのだろう。せっかくそれを聴きわけていても、演奏の価値は一様ではありえない、できるかぎり秀でたところを探したい、新しい感性をみつけたい、という「善意」が正直な耳を邪魔する。そしてそれを「解釈」とか、リズム感とかに分解して理解しようとする。
ふいに昔ラジオで小澤さんと吉田さんの対談を聞いたことを思い出した。僕が覚えているのは、小澤さんが「先生、日本人って音楽好きなんでしょうかねえ?」と訊ねたことだ。僕はそれを聞いて小澤という人は幸せな人だ、と思ったのでよく覚えているのである。僕はといえば、この問いに対する否定的な答えを得た上で選んだ道だったから。
吉田さんがそれについてどう返答したか、もう覚えていない。ただ、吉田さんの声は優しくというよりは弱々しく、あいまいに、そんな難しいことを軽々には断言できないのだよ、といったことをつぶやいていたように記憶する。そのとき僕は、ああ、吉田さんは小澤さんが可愛くて仕方ないのだな、と思った。
この稿を書き上げようとしてコメントが目に入ったので、あちこち順序を入れ替え、手を加えしていている。
フルトヴェングラーと小澤を同時に賛美することは不可能だというのが僕の前回の記事の要点だ。これに首をかしげる人が多いのは承知の上である。いわゆる好みの問題ではないと繰り返しておく。その上で、耳は意見や正論にいつでも従うとは限らないことを再度言っておきたい。
簡単に言えばこうだ。ベートーヴェンの交響曲をある時には荘重な気持で演奏する、他の時は軽いのりで演奏する、という演奏家はいないだろう。(ベートーヴェンの音楽を好まないという人がいるのは当たり前のことで、それはちっとも構わない。むしろ価値観、好みが多様なのは健全な証だ)
演奏家のみならず、聴く人にとっても事情は同じだ。あるときは重厚な「英雄」を、またあるときはポップス調の「英雄」を好むということが起こりうるとは考えにくい。
もっとも、最近ではクラシックと○○のコラボレーションだのが流行ってはいるけれど。しかし、この時クラシックの楽曲は感動という言葉が出るような感じ方から、最も遠い位置にいるのはたしかだ。何の芸もない、むしろ気の利かぬ退屈な楽曲さ。メロディーは「貧弱」だし、和音も田舎くさい。ためしに「英雄」のテーマでも鼻うた調でやってごらんなさい。ミーソミーシミソシミーなんてバカ丸出しではないか。面白くも可笑しくもない。
こうした曲を支えるのは、ただただそれに相応しい音質だとしかいえない。
あるべき姿などとうっかり言おうものならば、姿は固定化されたものではない、と返ってくる。僕もここはじっくりと言葉を探さねばならないのだ、本当は。こんなに駆け抜けるように書いてはならないはずだ。
しかしもともと音を、音楽を言葉で話すこと自体が無理なのだ。無理を承知で試みるけれども、言葉で表わそうとすれば理屈が通ったほうが有利なのである。僕はただ、音を言葉で表わすには無理がある、人が今聴いている音は音楽に必要な音からはかけ離れてしまっている、ということを繰り返す以外に術がない。
曲の解釈という言い方も本当はまずい。この曲は心を打つ、あるいは素敵だ、何でも良い、それくらい簡単なことでもあるのだ。解釈なんていうととても立派にきこえるけれど。よい声だ、と思うときにその声を解釈なぞしないわけで、その歌い手が解釈しているつもりなら、勝手にさせておこう、という聴き方が一番よい。
以前にも書いたが、素人の歌声を訓練され完成された歌声と区別するのは容易である。僕の中には歌曲への解釈は山ほどあるのに、また歌手のそれより心理的に、音楽論理的に等あらゆる面で勝っているかもしれないのに、ものの役にもたたない。当然のことで、不満があれば歌唱法を習えばよい。
小澤さんには音楽に必要な声がない。小澤さん、と書いたが、本当は僕にとっては誰でも良かったのである。これは吉田さんが挙げた名前で、僕たちにいちばん親しい名前だから取り上げたに過ぎないのだ。
オーケストラは曲がりなりにも出来上がった奏者から編成されているから聴きわけるのが困難である点、ピアノと似ている。聴き手は少なくとも音楽はあると決めている。果たしてそうか?
前回のコメントへの返事で書いたとおり、例えばピアノはもう製造が困難なほど追い込まれている。ちょっとでも経験ある技術屋はだれでも認めている。そして古い上質の楽器を扱える奏者が極めて少ないことも。これを批評家のせいだ、と言っているのではない。演奏家たちが自らまいた種だ。
どうにも収まりがつかないね。もう少し続けましょう。
重松君が小澤を評価しないことは解った。でも小澤は日本だけでなく欧米でも、つまり上に挙げたかつての大指揮者たちが活躍した場所でも、評価が高い。重松君の言を信ずるなら、それはおかしいことになる。海外の聴衆にもオーケストラの「響き」というものが理解できなくなっている、ということか。それはなぜなのかしら。
もうしかしたらこういうことかも知れない。
と、書き始めて、これは長くなりそうだ、と思った。近いうちに記事にして出しましょう。結構根気が要りそうだ。
ヨーロッパで人気があるかないかは全く関係がない。ベルリンフィルはまるで違うオーケストラになった。ヨーロッパの聴衆が変わったのか、と問われればそうだと答えるしかないかな。でも聴衆は与えられるものを受け取るからね。王様は死んだ、新しい王様万歳、というわけだ。
テールヒェンというティンパニー奏者の本についてもそのうち紹介しようと思っている。
耳もひとたび聴こえてしまうと、いやでも聴こえてしまう。人間として生活する限り、お世辞や皮肉の声色と心からの言葉の声色を区別するでしょう、同じことだ。勘の悪い人は騙されることがままあるが、まるで分からないという人がいないからこそ、イヤミも言う甲斐があろうというものだ。