ルイガノ旅日記

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ロシア 美術館めぐり⑥ ~ エカテリーナ宮殿

2019年03月31日 | 海外旅行

エカテリーナ宮殿はサンクトペテルブルク市街から南西に約25km、ロシア語で「皇帝の村」を意味する「ツァールスコエ・セロー」にあります。もともとは、ピョートル大帝が后(後のエカテリーナ1世)のために建てた夏の宮殿でしたが、娘のエリザヴェータ女帝が即位後、イタリアの建築家を招いてバロック様式の宮殿に大改築しました。写真右奥、金色に輝くタマネギ型のドームは宮殿礼拝堂です。


庭園の奥(東側)に見えるのはパビリオン・エルミタージュ。エカテリーナ2世のために建てられた小宮殿です。


まずは大理石の大階段を上がって、宮殿見学がスタートします。


階段ホールの壁面には、日本や中国の陶器が飾られていました。当時、こうした陶器は金に勝るとも劣らぬ貴重品だったそうです。


最初の踊り場を過ぎると階段は4方向に分かれます。エルミタージュ美術館冬宮の大使の階段ほどの壮麗さはないものの、この階段ホールだけでビル1棟くらい入りそうな大きさがあります。


階段を上がって東側には、眠そうに目をこする「目覚めのキューピッド」。


長さ47メートル、幅17メートルの大ホール(鏡の間)。窓や鏡の効果もあって、ただ広いだけではなく明るく開放的です。「ロシアの勝利」と題する巨大な天井画は、一枚の絵ではなく部分ごとに分けて描かれていました。


江戸時代(1782年)、遭難してロシア領アリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫が、日本への帰国許可を求めるため、時の皇帝エカテリーナ2世に謁見したのもこの部屋でした。絢爛豪華で光まばゆいこの部屋は、江戸時代の庶民(大黒屋光太夫は船乗り)の目にどう映ったのでしょうか。


中央の扉を挟んで、オランダのデルフト焼きの巨大なペチカが設置されています。


ありとあらゆるところが金箔で飾り付けられていました。


ガイドさんの説明では、誰もがいつでも食事することができるよう準備されていたというダイニング。


部屋ごとに意匠を凝らしたエルミタージュ美術館冬宮とは異なり、床の寄せ木細工の模様は、多くの部屋で統一されているようでした。


大きなグランドピアノが霞むほど天井が高いです。


再び階段ホールへ。西の窓際に置かれているのは「まどろむキューピッド」。東側の「目覚めのキューピッド」と対になっています。


全長300メートルを越えるエカテリーナ宮殿。ドア越しに見通すと、どこまでも部屋が続いているように見えます。(写真は、中央の階段ホールから北向きに撮ったもの)

 
皇帝一家のダイニングルーム。白と金で統一された印象から「白の主食堂」と呼ばれます。これに対し、古代ギリシャをモチーフにした「緑の食堂」もありました。


マジョリカ焼きの調度品。

ひとつひとつの小さな花まで、実に精緻!

壁一面が絵で埋め尽くされた絵画の間。


広い宮殿にライティング・ビューローは二つしかなかったのだとか・・・・・・。


肖像画の間。


ナポレオンのロシア遠征を阻んだ第10代皇帝アレクサンドル1世の肖像画。アレクサンドル1世は、肖像画によってかなり印象が異なるような気がします。

玉座に座るエカテリーナ2世に、踏み台が差し出されている場面のように見えます。


エカテリーナ宮殿で二つ目のライティング・ビューロー。どちらも緻密な装飾が施されていました。

 
エカテリーナ宮殿は、広い窓などの開口部が多くて、明るく開放的。反面、これだけ開口部が多いと、厳しい冬の寒さには耐えられなかったそうです。ネヴァ川沿いに建つ更に豪華な冬宮と異なり、夏だけの離宮として割り切って使われたのでしょう。
壁一面が琥珀で装飾された「琥珀の間」は、期待どおりの美しさでしたが、撮影禁止だったため写真はありません。ちなみに、琥珀の間に埋め込まれた琥珀は、2次大戦でナチスドイツに略奪されて未だに行方がわからないそうです。失われた琥珀の間は、1980年代から再現のための努力が始まりましたが、オリジナルの琥珀の間についての資料が乏しく、作業は大変な困難を伴ったとのことでした。努力の甲斐あって、サンクトペテルブルク建都300年にあたる2003年、およそ20年近い歳月をかけて現在の琥珀の間が完成。その美しさを今に伝えています。

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コメント (2)
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