パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

記憶するために――堀浩哉展

2011-07-23 13:21:41 | Weblog
 数日前、現代美術家・堀浩哉展「起源――naked place」を見た。

 展タイトルに冠された「起源――naked place」は、縦1メートル、横3メートル弱くらいの、オフセット印刷機の亜鉛板のハンコを連想させる厚さ1ミリくらいの板の全面に、「記憶するために」という言葉が繰り返し書かれている。

 私が「亜鉛版」を連想したのは、その微妙な青色の諧調が、職業柄、見慣れているオフセットの亜鉛版に似ているように思ったからだった。

 そしてそこから、さらに妄想をたくましくして、「記憶するために記憶するために……」と繰り返し殴り書きしたB5判くらいのノートの切れ端かなにかを、亜鉛版に拡大焼き付けし、それを展示しているのではないかと思ったのだった。

 それで、近場にいた知人に聞いてみると、「いや、そうではない。ビデオ画面を焼いた上に、直接文字を書いたのだ」という。

 え? どういうことなんだろう?

 本人に聞けば一番よくわかるのだが、本人は、展覧会に付属して行われる、同タイトルのパフォーマンスの準備で忙しいのだった。

 そのパフォーマンスが、やがて始まった。

 多分、昔の「AIR」展で使った物と同じと思われる、太いロープにぐるぐる巻きにされた堀浩哉が「記憶するために」とつぶやきながら、会場に現れ、小刻みに前進する。

 その後、堀夫人のエリゼさんが、観衆の間をかき分けて登場、その観衆に、自分の来ている衣装に「針」を入れるように要請する……というパフォーマンスで、終わった後、エリゼさんに「千人針ですね」と言うと、「年がばれるわよ」と言われた。

 さすがに私は「千人針」なるものの実物を見たことはないけれど、それは、つまるところ「記憶」を保証する装置、仕掛けにちがいなく、「起源――naked place」展もまた、同様な「仕掛け」からなるにちがいない。

 では、「記憶するために」、なぜそんな「仕掛け」が必要なのかというと、たとえば外出した後、部屋の石油ストーブを消したか否か、ひどく気になる時があるが、それは、「石油ストーブそのものの映像的記憶」を呼び覚まそうとしているからである。

 しかし、「映像」にこだわっている限り、問題は絶対に解決しない。

 消えたストーブの映像が、燃えるストーブの映像を呼び覚まし、燃えるストーブの映像は、消えたストーブの映像を呼び覚ますからだ。

 この「悪循環」を断ち切るには、同じ部屋の中にある物で、「ストーブとはまったく関係のないもの」を思い出し、それをストーブと結びつければよい。

 その「記憶」を手がかり(サイン)に、ストーブが部屋を出るときにどういう状態であったかを確かめることができる。

 「千人針」は、その一種である。

 ……といったことを、「起源――naked place」の場に立ち会いながら考えたのだったが、堀本人に会って話を聞いたところ、オフセット印刷機の亜鉛版かもしれないと思った「微妙な青色」は、実は、宮城県の海をビデオで撮った映像を、ちょっと特殊な印刷でプリントしたもので、その上に、これも特殊なインクで「記憶するために」と書いたのだそうである。

 あれほどの惨事を引き起こした海が、今では実に穏やかで、奇麗に透き通っていたことにショックを受けたのだそうだ。

 また、「起源――naked place」と名づけられた作品は、もう一つあるのだが、それは、韓国の釜山の海なのだそうである。

 こちらの場合の「記憶」は、文化的政治的な事柄に向けられていることになるが、私は、釜山の海の「色」が、宮城県の海の色とはまったく違うことにリアリティを感じた。

 「違う」ことが、両者を隔てるのではなく、逆に「つなげる」と思われるからだ。

 もうひとつ、意外だったのは、ノートの切れ端に書いて、それを拡大したものとばかり思っていた「文字」が、実際は、堀が直接に書いたものであったことだった。

 「筆跡」という観点からすれば、書道パフォーマンスでよく見る、身の丈を越える巨大な筆で書いた文字でも書き手の「個性」が維持されるのだから、当たり前と言えば当たり前であるが、考えてみれば、これは、より本質的には、対象と似ていないのに対象と結びついているという、文字の本質――「サイン性」に起因しているのかもしれない。

 デカルトが、「太陽という言葉、文字は、太陽と似ていない」とか書いていて、「何を言っているのだろう?」と、不思議に思ったことがあるが、「対象と似ていない」からこそ、文字、あるいは言葉は機能するのだ。

 漱石の『門』の冒頭、主人公がごく簡単な文字を読めなくなって困惑する有名な場面があるが、あれは、象形文字である漢字でも、実際は「対象と似ていない」が故に文字として機能しているし、同じ理由で機能しなくなることを示している。

 同様に、「対象と似ている」ことをもって自らの本質とする「映像=写真」は、「似ているけれど似ていない、まるで屍体のようなゲットーのセット」として機能する。

 金村修が、私の『風に吹かれて』について語った、謎の言葉――「写真は、世界の残骸に類似する」は、きっとそういう意味だったにちがいない。
 
 そんなことを、「起源――naked place」の場で、その意味を手探りしながら、私は考えていたのだった。