パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

一歩前進、二歩後退

2011-07-31 21:42:55 | Weblog
 民主党と政府の足並みが揃わないため「復興増税」の具体案の作成ができないそうで、NHKニュースでは、「復興のためなら増税も仕方ないと思う」という「街の声」を紹介したものの、番組の最後に、司会者が、「NHKは増税賛成なのか、けしからん、とおしかりの言葉をまた受けるかもしれませんが、NHKは決して増税賛成というのではなく……」云々と弁解していた。

 いや、納税者が増税を「被災者のためなら」と納得して受け入れたとしても、実際には、その分、財布のひもを締めるだろうから、結果的には差し引きゼロでしょという、簡単な話なのだが、こんな簡単な話がなぜわからないのか。

 日本人は、眼前の事実を見るだけで、「概念」を理解するのが苦手なのだ。

 というか、「概念的存在」を、はなから信じていないのだ、きっと。

 例えば、震災後のスローガン「一つになれニッポン」には、これまでさんざん楯突いてきたのだが、決して「一つになるのがイヤ」と言っているのではないのだ。

 では、私は、いったい何に楯突いているのか?
 
 中根千枝の「タテ社会」の著書に載っていた話だが、日本にやってきた留学生が(中国人ということだったが)、下宿先で、女主人から「私をお母さんと思って家族のようにつきあってくださいね」と言われて閉口したという。

 「家族関係」は、「代替不可能」な関係なのに、家族でないものを家族と思え、なんて無理だというわけだ。

 逆に言うと、「家族関係」が他の人間関係で代替可能であるが故に、「家族と思ってくださいね」という台詞が出てくる。

 ……という、記述を読んで、なるほど、と思った。

 「家族」とは、中国やインドのような大家族制の社会であれ、英米のような小家族制の社会であれ、概念的存在である。

 あるいは、概念的存在としての「家族」を支えているのが「家族制度」である、と言えるかもしれない。

 「概念的存在としての家族」というのは、あまり聞き慣れない表現かもしれないが、要するに、「家族を名乗る資格」である。

 大家族制の場合、その資格はより広範であり、小家族制の場合は狭い、というわけだ。

 その「資格」は、現実には「制度」によって必ず守られるわけではないにしても、「家族を名乗る資格」は「資格」として、すなわち「概念」として認識されているのだ。

 ところが日本の場合、そんな発想は皆無である。

 とりわけ「家族」の場合。

 では日本の「家族」は、いかなる存在なのかというと、幼い頃から「一つ屋根の下」で暮らしてきたから「家族」なのだ。

 震災復興のスローガン――「一つになれ」も、かつて「一つ屋根の下」で暮らしてきた過去を夢見ているのだ。

 「かつてあった」過去を夢見、憧れることは、人間として普遍的な感情であるけれど、問題は、日本人が「家族」を「家族概念」を媒介せず、「実感」として受容していることだ。

 もちろん、日本人と異なる家族概念を持つ(実際のところ、日本人は「家族概念」を持たないのだが)中国人やインド人が、親兄弟を、ただ概念としてしか理解していないわけではない。

 親や兄弟、姉妹、あるいは叔父叔母、従兄弟等に対する気持ちは、少なくとも小説を読んだり映画を見たりする限り、我々と変わるものではないと思う。

 問題は、日本人の場合、家族間を結ぶ「絆」は、「実感」しかないということだ。

 
 その結果、「日本全体が一つ(家族)になれ」というスローガンの後ろにそれと矛盾した心理が張り付いていることになる。

 それは、たとえ「一つ屋根の下」で一緒に暮らした近親者であっても、目の前にいない限り、「去る者、日々に疎し」とする心理である。

 これは諸外国の人には――中国からの留学生に「私を家族と思ってくださいね」と自己紹介して戸惑わせたのと同じ――「欺瞞」と見えるに違いない。

 しかし、私は、この日本人独特の感性を破棄せよと言っているのではない。

 そんなことは、典型的日本人である私自身を振り返ってみてできはしないと思うからだが、しかし、「概念的思考」(論理的思考)を理解し、必要に応じてそれを駆使することはできると思うし、さもなければ、日本に未来はないと思うのだ。

 ただしそれは、外国人とつきあうためでも、グローバリズムに対応するためでもない。

 日本人同士が、「お互い、日本人じゃないか」という甘えを介さず、論理的に話し合うために「概念的思考」は絶対に必要であり、それは、遅々として進んでいないように見えて、少しずつ、「一歩前進、二歩後退」のようなかたちかもしれないが、進んでいるようにも思うのだ。