パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

私の我が侭

2011-07-14 00:05:15 | Weblog
 地デジを見れるようになったことは、折角買ったものが無駄にならなかったという意味で、歓迎すべきことなのだが、これまで、時間つぶしに見ていた通販チャンネル「QVC」が見れなくなってしまったのはイタい。

 見るものが、本当になくなってしまったので、ラジオで巨人阪神戦を聞いたが、1対1から、檜山の犠牲フライで阪神のサヨナラ勝ち。

 後のスポーツニュースで、喜ぶ檜山の姿が写し出されていたが、放送するに値しないと決めたのなら、大相撲の扱いが主な取り組みの結果だけのように、スコアと勝利投手、ホームランを打った選手の名前等、「結果だけ」放送せよと言いたい。

 BS放送かなにかでやってるのかもしれないが、そんなものを契約する気はさらさらない。

 有料で契約してでも、是非見たいものなんかない。

 ……というわけではなく、「是非見たい」ものはあるのだが、そういうものは、勝手に放送しているものを、勝手に見たいのだ。

 ものすごい我が侭を言っているようだが、偶々聞いた巨人阪神戦が好ゲームであったように、私は、「偶然」に出会いたいのだ。

 金払って契約して、テレビの前に座って、凡戦を見せられるなんて、「堪忍ならぬ」ということだ。

 実際の話、スポーツ中継にしろ、映画ドラマにしろ、大体は「平凡」で、見るに値するものなんて、普通は、「ない」のだ。

 そういう「現実」を踏まえた上で、偶々スイッチを入れたら、森雅之と高峰秀子がすごくて、「ナンダコレハ!」と興奮し、後でそれが豊田四郎の『浮雲』だとわかった、なんて「偶然の出会い」をしてみたいのだ。

 「コレがソレだ」という、代名詞の重なり合いというか。

 いずれにせよ、NHKが集金に来ても、「テレビは見てません」とはっきり断る理由が出来た。

 NHKにしてみれば、「あなたのご不満の対象は民放でしょ」と言いたいだろうが、そういうわけで、NHKにしても、日本を真の文化国家にしたいと思うのなら(そう思っているらしいが)、黒澤明から豊田四郎から、座頭市シリーズから社長シリーズから、Eテレで、全部流せ、と言いたい。

 近代日本の文化遺産といったら、「映画」にとどめをさすのであって、日本を真の文化国家にしたいのなら、すべての日本人が、「ああ、あれね、テレビで見たよ」と、直ちに反応し得るような「常識」にすることが大事なのだ。

 江戸時代の浮世絵が到達した表現レベルを、江戸時代以降の近代日本人がすっかり忘れ去ってしまった、「苦い轍」を踏まないように。

 日本人なら、そして日本人のみが浮世絵の神髄、本質をわかることができる、なんて考えているとしたら、それは近代日本人に特有の、とんでもなく屈折したナルシズムだと思う。

 ぶっちゃけて言えば、その「屈折したナルシズム」が、「震災後」の日本において、「屈折したナショナリズム」として現れているような気がしてならないのだ。