パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

あり得べき現代の写真のかたち……のはず

2011-07-06 23:14:39 | Weblog
 今日、郵便ポストをのぞくと、雑誌「あいだ」(そういう雑誌があるのだ)と、公明新聞が届いていた。

 いずれも、「風に吹かれて」の書評が載っていて、それで送ってもらったのだが、「あいだ」の書評は写真家の金村修氏が書いてくれていることを知っていたので、いったい、どんなふうに見てくれたのか、大いに興味を持って待ちわびていたのだった。

 他方、公明新聞については、「とりあげたい」と編集部から連絡があって、それで本を送っただけで、いったい誰が書くのかわからなかったので、正直言って、あまり期待はしていなかった。

 とりあげくれれば、それだけで結構なこと、とそんな気持ちだったのだが、両方とも、「読み」が深いので驚いた。

 まず公明新聞だが、執筆者は光田百合という美術評論家で、「見ていくほどに、胸が痛くなるような喪失感が伝わってくるのは何故か」という前置きから始まり、「彼の求道的な写真との関わり方から生じる非到達感のようなものが、逆説的に現代の写真がどんなものでありうるかを教えてくれる。」と結ばれていたが、その中間に、“もし、これらの写真に見るべきものがあるとしたら、それは、私の『進歩』とは関わりがなく、いつか、ここに写っている『かたち』が形骸化するのを待つしかないのだ”という、私の文章が引用されていた。

 実は、この文章は、最後の校正時に加えたもので、今思うに、“私の『進歩』とは関わりがなく”を削除し、“もし、これらの写真に見るべきものがあるとしたら、それは、いつか、ここに写っている『かたち』が形骸化するのを待つしかないのだ”とするべきだったと思うのだが、それはともかく、この「形骸化」という言葉が、金村修氏の評論と暗合しているのだ。

 金村修氏の評論のタイトルは、次の通りである。

 “無限につづく隣接の運動、写真は世界の残骸に類似する”

 「あなたの写真は、世界の残骸に過ぎない」なんて言われたら、普通の人はきっとがっかりするだろうが、私は大いに喜んでしまうのだ。

 金村修氏の評論は次のように結ばれている。

 記憶は未来を語らない。未来を語ることを禁止するメシアが記憶なのだ。
 井の頭公園のなかの動物園は、アジェのような「歴史のプロセスの証拠物件」――どの歴史にも所属できない歴史のプロセス――到達点を見失ったプロセス――立証されることのない証拠物件――必要とされない目撃情報としてある。そこには語られるべき動機が存在しない。世界の無動機の湧出。写真は世界の残骸に類似する。


 「必要とされない目撃情報」とは、よくぞ言いも言ってくれたりであるが、この言葉に喜んでしまうのは、写真とはそういうものだと常々思っているからなのだ。

 実際、いろいろ学べば学ぶほど、それは確信に近づく。

 たとえば、アフォーダンス理論のジェームス・ギブソンは次のように書いている。

 知覚することは、世界についての知識を持ったり、獲得することである。しかし、視知覚に際しては、知識を得るようには感じられないことが度々ある。視知覚は、媒介を経ず、直接知ることや、直接に接触することのように感じられる。

 これはどういうことを言っているのかというと、視知覚が「内容」を持つと、われわれはある意味、「画像」から切り離されてしまう。そして、切り離されることで、それと再度結合させようと試みる。

 それが、観念と結びついた「画像」のイメージで、とくにカメラを構えて写真を撮るとき、われわれは、それを得ることを「世界を見る」ことだと考えがちだが、ギブソンは、視知覚の実際はそうではないと言うのだ。

 むしろ、そのような「視知覚の実際」を暴くこと、それが光田百合氏の言う「あり得べき現代の写真のかたち」であり、また、金村修氏の言う、「必要とされない目撃情報」としての写真ということになるはずなのだが……うーん、うまく言えてないかもしれないが、でも、きっと間違えてはいないはずなのだ。