パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

原田芳雄の本質

2011-07-20 01:38:00 | Weblog
 原田芳雄が死んじゃった。

 「訃報」と言えば裏亭さんというわけで、早速ミクシーをチェックしてみたら、タイトルに曰く「象徴だった男」。

 そうだな、まったくその通りだと思った。

 では、何の象徴かというと、私に言わせれば、「時代の象徴」だ。

 そして、ここで、若干、裏亭さんと意を異にせざるを得なくなる。

 何故かというと、「時代の象徴」と言うと、どうしても「いい意味でも、悪い意味でも」とつけ加えざるを得なくなるからだ。

 私にとって、原田芳雄は、「茫洋としていて、どことなくユーモラス」というイメージがある。

 ところが、裏亭さんの記事では、「アナキスト、アウトロー、風来坊」のイメージで語られていた。

 ウィキペディアでも、同様だった。

 もちろん、そういうイメージで原田芳雄が「語られている」ことは、予想がつく、というか、知っているが、私にとって、原田芳雄は、あくまでも「茫洋としていて、どことなくユーモラス」というイメージなのだ。

 その意味で言うと、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』における役なんかが、ふさわしいのだが、私は『ツィゴイネルワイゼン』はちゃんと見ているつもりだが、原田芳雄が出ていた記憶がないのだ。

 ということは、『ツィゴイネルワイゼン』における原田芳雄の役柄は、「茫洋としていて、どことなくユーモラス」なものではなかったのだろう。

 敷衍して言えば、残念ながら、彼の出演作品(映像)においては、そういう持ち味は生かされていないと断ぜざるを得なくなる。

 なんでまた、こんな七面倒くさい言い方をしなければならないのかというと、70年代以降につくられた映画、とくに日本映画は、「基本的にダメ」と思っているからだ。

 「基本的にダメ」だから、基本的に「見ない」、あるいは、「見る」としても、拾い物を探すというイメージで接している。

 もちろん、「拾い物」は、ある。

 なかでも一番びっくりしたのは、日活のロマンポルノだった。

 しかし、「基本的にダメ」という姿勢自体は変わらなかったので、以後、ロマンポルノを集中的に見るということはなく、ちょっと後悔しているのだが、それはともかく、中でも一番びっくりしたのは、『宵待草』という、神代辰巳監督の作品で、歌曲「宵待草」の作詞者、竹久夢二をモデルにしたものではないが、時代背景はちょうどその頃、つまり大正末期から昭和初期で、アナキストが出てきたり、飛行船がでてきたりする、何を言いたいのかよくわからない「茫洋」とした作品だった。

 そう、それこそ、「茫洋としていて、どことなくユーモラス」な原田芳雄にぴったりの作品なのだが、原田の出演作品に『宵待草』はなかった。

 それでも、しつこく、「原田芳雄と日活ロマンポルノ」でググって見ると、意外や意外、年代的には当然なのかもしれないが、原田芳雄は、ロマンポルノ路線に転じる前の日活を支えた役者だったのだそうだ。

 要するに、原田芳雄は、日活ロマンポルノの監督にとって、ちょっとスター過ぎたのだ。

 それにしても、ウィキペディアに並ぶロマンポルノ、特に神代辰巳の作品群は、まさに綺羅星のごとく、輝かしく、それだけに、「裸で、扇情的であれさえすればなんでもいい」という、当時の日活上層部の経営判断はあまりにも「ことの本質」を見誤ったもの、と思わざるを得ない。

 否、「見誤った」のではなく、「ことの本質」を、まったく見ていなかったのだ。

 ところで、原田芳雄になんで「茫洋としていて、どことなくユーモラス」なイメージを持ったかというと、多分、「ブルース」を含む、彼の「語り口」だと思う。

 それが、原田芳雄に関する一切の「ことの本質」だ。
 やっぱり、「本質を見る目」が、大事なのだ。

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