小中学校の教育要項が、「正解は必ずしも一つとは限らない」という、現実を見据えた理解力の向上を目指す方向に変わってきている、とニュースキャスターが伝えた直後、海老蔵事件における海老蔵と殴ったと伝えられる関係者の言い分が食い違うことを指して、同じキャスターが、こう言った。
「事実は一つです」。
おいおい、である。
ニーチェはなんと言ったか。
「事実なんか存在しない。存在するのは、ただ、事実の解釈である」と言った。
「事実の食い違い」は、海老蔵が解釈した事実と、事件を周辺で見ていた人間が解釈した事実が食い違っているのであって、それは、いわば「当然」のことである。
それを、「食い違っている」という、これまた、もう一つの「事実」を取り出して、海老蔵がいかにも本当のことを言っていないがごとき推測をするのは不当、というか、それ自体まちがっている。
ところで、ニーチェが「事実など存在しない」と言ったときから、いわゆるポストモダンが始まったのだが、それでも,事実は存在するし,存在するとしたら、それは「一つ」だろうと考える、プレモダン的立場は根強い。
相対論を確立したアインシュタイン自身が,「事実は一つ」、「神様はさいころを振らない」と強硬に主張したくらいだから、なかなか大変なのだが、私としては,この問題については、「ディラックの海」を推奨したい。
ディラックは、有名な理論物理学者で、彼は、事実というか、実体というか、目に見えている世界を、「海の波」にたとえた。
その「波」のもっているエネルギーが、「事実というか、実体というか、目に見えている世界」に相当する。(これは、アインシュタインの「物体=エネルギー」説とも符合する。)
では、その「波」が消えてしまったらどうなるか?
ディラックは、それでも「海自体」は存在すると言ったのだった。
その波のない「海」を「ディラックの海」というのだが…
翌日,育児放棄した母親が、懇請して子供を引き取ったものの、再度育児放棄する例が多いという問題をNHKでとりあげていた。
なんか、やれやれなニュースが多いのだが、番組には、この問題を研究している若手社会学者のような人が、「母親の育児放棄は、その母親だけの問題ではない、公的施設に子供を預けて済む問題でもない、我々市民みんなの問題なのだという問題意識のもとに解決すべきことである」と、高揚した表情で語っていたが、おいおいである。
これでは元の木阿弥ではないか。
そもそも母子関係というものを考えると,子供にとって母親とは、「母親という記号」として、生まれたときに刷り込まれてしまっている。
しかも、それに全面的に依存している。
鴨の子供が、最初に目にした「動くもの」を母親と認識するようなもので、だから、どんなに虐待されても、「ママ~」とすがることになる。
一方、母親にとって「子供」は、記号化された存在ではない。
母親は子供に依存していない。
したがって、育児を負担に思う母親は必ず存在する。
というか、本音ではみんなそうなんだと思う。
でも、そんなこと言えないし、人間としての義務だと思って、自らを叱咤して育児をしているのだと思うのだが、だとしたら、育児放棄を繰り返す母親に、「しっかりせよ」と他人が叱咤することも可能であるはずだが、現実にはそうはいかない。
「嫌なものは嫌」というわけだ。
では、どうしたらいいのか。
「母親」とは、「母親という記号」だと書いたけれど、これは、現実に母親がいなくても、「母親という記号」があればよいということでもある。
長谷川伸の「瞼の母」、あるいは、「男は辛いよ第2作」のミヤコ蝶々なんかだ。
要するに、育児放棄した母親に育児を強制するのではなく、むしろ、母親という記号は「瞼の裏」にとどめておくよう、子供を説得し、養い親かなにかを斡旋するほうがいいのではないか。
ともかく、育児放棄した母親のいる家庭をご近所みんなで支える、なんてわけのわからない提案で自ら昂揚しているようでは困る。
「事実は一つです」。
おいおい、である。
ニーチェはなんと言ったか。
「事実なんか存在しない。存在するのは、ただ、事実の解釈である」と言った。
「事実の食い違い」は、海老蔵が解釈した事実と、事件を周辺で見ていた人間が解釈した事実が食い違っているのであって、それは、いわば「当然」のことである。
それを、「食い違っている」という、これまた、もう一つの「事実」を取り出して、海老蔵がいかにも本当のことを言っていないがごとき推測をするのは不当、というか、それ自体まちがっている。
ところで、ニーチェが「事実など存在しない」と言ったときから、いわゆるポストモダンが始まったのだが、それでも,事実は存在するし,存在するとしたら、それは「一つ」だろうと考える、プレモダン的立場は根強い。
相対論を確立したアインシュタイン自身が,「事実は一つ」、「神様はさいころを振らない」と強硬に主張したくらいだから、なかなか大変なのだが、私としては,この問題については、「ディラックの海」を推奨したい。
ディラックは、有名な理論物理学者で、彼は、事実というか、実体というか、目に見えている世界を、「海の波」にたとえた。
その「波」のもっているエネルギーが、「事実というか、実体というか、目に見えている世界」に相当する。(これは、アインシュタインの「物体=エネルギー」説とも符合する。)
では、その「波」が消えてしまったらどうなるか?
ディラックは、それでも「海自体」は存在すると言ったのだった。
その波のない「海」を「ディラックの海」というのだが…
翌日,育児放棄した母親が、懇請して子供を引き取ったものの、再度育児放棄する例が多いという問題をNHKでとりあげていた。
なんか、やれやれなニュースが多いのだが、番組には、この問題を研究している若手社会学者のような人が、「母親の育児放棄は、その母親だけの問題ではない、公的施設に子供を預けて済む問題でもない、我々市民みんなの問題なのだという問題意識のもとに解決すべきことである」と、高揚した表情で語っていたが、おいおいである。
これでは元の木阿弥ではないか。
そもそも母子関係というものを考えると,子供にとって母親とは、「母親という記号」として、生まれたときに刷り込まれてしまっている。
しかも、それに全面的に依存している。
鴨の子供が、最初に目にした「動くもの」を母親と認識するようなもので、だから、どんなに虐待されても、「ママ~」とすがることになる。
一方、母親にとって「子供」は、記号化された存在ではない。
母親は子供に依存していない。
したがって、育児を負担に思う母親は必ず存在する。
というか、本音ではみんなそうなんだと思う。
でも、そんなこと言えないし、人間としての義務だと思って、自らを叱咤して育児をしているのだと思うのだが、だとしたら、育児放棄を繰り返す母親に、「しっかりせよ」と他人が叱咤することも可能であるはずだが、現実にはそうはいかない。
「嫌なものは嫌」というわけだ。
では、どうしたらいいのか。
「母親」とは、「母親という記号」だと書いたけれど、これは、現実に母親がいなくても、「母親という記号」があればよいということでもある。
長谷川伸の「瞼の母」、あるいは、「男は辛いよ第2作」のミヤコ蝶々なんかだ。
要するに、育児放棄した母親に育児を強制するのではなく、むしろ、母親という記号は「瞼の裏」にとどめておくよう、子供を説得し、養い親かなにかを斡旋するほうがいいのではないか。
ともかく、育児放棄した母親のいる家庭をご近所みんなで支える、なんてわけのわからない提案で自ら昂揚しているようでは困る。