パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

夢の中

2010-12-30 16:39:48 | Weblog
 鳩山邦夫が、宮崎勤の死刑執行は自分が役人に命じたのだと言い放った。

 正確には、「命じた」ではなく、「あれはどうなった?」と、役人に死刑の執行を促したのだそうだが、まあ、同じようなものだ。

 亀井静香が、これに対し「あなたは殺人を犯してしまった」と、言い,スタジオが一瞬静まり返ったが、宮崎の場合は、結局、死刑が最終判決となったとはいえ、精神鑑定をめぐってかなり問題があった事件であり、鳩山の言い方は酷すぎる。

 ところで、パリ人肉食殺人事件の佐川一政は、犯行時心神喪失ということで、無罪となって日本に送り返されたのだったが、その佐川が、宮崎勤について、こう語っている。

 「(自分の場合もそうであったが)犯人を人として血祭りに上げていることには変わりありませんが,どうもそう簡単には対岸に追いやるわけにはいかない。ビデオを積み上げられた彼の部屋の情景は、オレの友人のところでも見たぞというような薄気味悪さがつきまとうのではないでしょうか。その点で僕の事件のようには観客として安心してみていられないところがある。」(89年、「週刊テーミス」)

 よくもまあ、人を殺して、しかも「食べて」おきながら、ヌケヌケと…と感じる人が大半だと思うけれど、私は、正直に言って、心神喪失か精神病と判定されて釈放されたとしたら、その宮崎勤に「話を聞いてみたい」と思う気持ちがあるのだ。

 しかし,それはあり得ない。

 それは、彼の「無罪」があり得ないということではなく(実際、宮崎が「無罪」となる可能性は充分にあった)、彼の犯罪が、佐川のそれが「霧の中」なら、宮崎勤の犯行は「夢の中」で行われ、彼がその「夢」を「外」から見て、冷静に語ることは、不可能だろうと思うからだ。

 もちろん、夢一般がそうだというのではなく、宮崎勤という人が「そういう人」だと思うからだが、しかし、ここでちょっと引っかかってくるのが,宮崎勤は、捕まるまでは普通に暮らしていたということだ。

 捕まってからおかしくなった。

 そして、すべて、夢の中の出来事になってしまった。

 言い換えると,捕まらなければ,ずっと普通人として、普通に世間で暮らしていたかもしれない。(そういう奴は今現在、世田谷の4人一家皆殺しの犯人を含め、たくさん、うじゃうじゃいるのだ。実際の話)

 それで,犯行時はどうだったかということが、ことさら問題になったのだろうが、それはそれとして、日本の場合、死刑が科料として、是か非か、あるいは妥当かどうか、という問題ばかりが論じられ、殺人の研究というか、プロファイリングというか、が、なおざりになっているのではないか。

 宮崎勤が四人の幼女を殺したのは、彼が人だったからではない。

 まさに、人間が人間であるが故にとらわれた、奇怪な欲望の故だったのだが、一方で、幼児虐待死事件の多くが、継父によるというデータがあるんだそうで、これは、人間が本質的に「獣」であることを表している。

 つまり、ライオンは、新たに手に入れたメスに子供がいると,それを殺してしまう。

 メスライオンもそれをみとめる。

 幼児虐待死事件の多くも、それだというのだが、言われてみると、事実そうみたいだ。

 人間は、人間以外ではあり得ない理由で殺人を犯し,また、野生の動物としての人間としても、殺人を犯す。

 いずれにせよ、日本では「死刑問題」も、死刑という科料の質が倫理(日本の場合は世間の価値判断に等しいが)に叶うかどうかという、解決不能の問題を論じているだけなのだ。
 
 その意味で言うと、TPP問題とかとも同じなのだ。

 問題を「解決不能」なものに設定し、それでごちゃごちゃ言っているだけ。

 それにしても、大谷昭宏が宗旨替えか、「死刑賛成」になっているのはびっくり。

 下らぬネトウヨ的世論におもねたのか?

 それとも、昔からそうなのか?

 私には、そうではない印象があるのだが。(~印象がある、という言い方、流行っているが、あんまり好きではない。)