パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ポッポ,愛を語る

2009-05-17 19:54:29 | Weblog
 せっかく鳩山を誉めたと思ったら、マニフェストが「官僚から市民への大政奉還」だと。

 どこかの人気ブログの先生みたいに、明治維新の核になった儒教思想を吉田松陰から説き起こして「わかってない!」なんて理窟をこねるつもりはないけれど、もうちょっとどうにかならないのか。

 とはいえ、「愛」の問題が、近代日本の大問題であることは、その通りだ。

 日本人は,「他人」をどうしたら愛することができるか、わからないのだ。

 伊藤整に「近代日本における愛の虚偽」というエッセー風論文があり、そこでこう書いている。

 「勿論日本にもクリスチャンは多い。しかし我々一般日本人には、あの日本人クリスチャンたちのあり方が,実に多くの偽善性によって疑わしいもの二に見え,演技的なわざとらしい祈りや懺悔の習慣によって非現実的な宗教と思われている。賀川豊彦氏のような世界的に認められている大きな存在ですら,日本の知識階級は,何か疑わしい,ジェスチュアの多い、かなり演技の多い存在であると感じている。日本の良質のジャーナリズムの賀川氏に対する白眼視がそういうことに根ざしていることは疑うことはできない。
 それは我ら一般の日本知識階級は、不可能な愛というものを信じていないからである。不可能なことを目指して努力し,実現に到達し得ないことを感じて祈り,完成し得ないことを待ち望むことの空々しさが、我々の眼にクリスチャンを偽善者のように見させるのだ。我々には不可能なことから退いて自己を守るという謙譲や思いやりはあっても,他者を自己と同一視しようというような、あり得ないことへの努力の中には虚偽を見いだすのだ。我々は憐れみ、同情,手控え,ためらいなどを他者に対して抱くが、しかし真実の愛を抱くことは不可能だと考え,抱く努力もしないのだ。」

 テリー伊藤が、「友愛だなんてわけのわかんないことを言うな」と怒鳴っていたが、まさにテリーは、「不可能な愛など信じない一般の日本知識階級」の代表格である。(テリーは、「自分は知識人である」と自覚して振る舞っているように思う。そこがちょっと凄い。「私も大衆でございます」と言いたげな評論家とちがうところだ。)

 実際、キリスト教国において、この「愛の思想」が過去、貫かれてきたかというと、テリーが見通している通り、そんなことはない。なぜなら,己と他者を同一視することなど「不可能」なのだから。

 じゃあ、「他人への愛」なんか不可能なことは捨てて、ひたすら身内を中心とする既得権益を大事にせよ、とはさすがにテリーも言わない。

 他人を自己と同一視すると「愛」の思想は、ある局面では必要なのだ。

 それはテリーも認めるだろう。

 結局、この彼我の差は、孔子の「己の欲せざる所を人に為すなかれ」と、キリストの「人にかくせられんと思うところを人に施せ」の違いから来るが、この「かすかな違い」が、やがて、「文化の総和に置いての大きな違い」(伊藤整)となって現れたのである。

 要するに、「為すな」と「為せ」のちがいで、これは、現実には大きい差となって現れる。

 伊藤整の結論は,西洋キリスト教国では「神による強制せられた愛」という正数と、それに対応する負数,つまり「罪」を意識させられることになる。一方日本の場合、「負」を意識せられることからは免れているが、いずれが正しい認識であるか,「私はその二つの前に立って決しかねている」と結んでいる。

 まあ、いずれにせよ、鳩山の「友愛」は、日本のほとんどすべての知識人たちからは嘲笑されるだろうが、鳩山がそれを承知で、あえて引っ込めないでいる真意は案外深いところにあるのかもしれない。

 それともう1つ,伊藤整は、「近代日本における愛の虚偽」問題を、知識人の問題としている。そして,そうである限り、解決し得ぬ問題であるとしているわけだが、「大衆」には言及していない。

 多分,「大衆」は歌謡曲などで明らかな通り、江戸時代の「愛の世界」と寸分変わらぬ世界に浸っているという判断だろうが、鳩山は、今後、選挙があるわけだから,まさにその「大衆」に向かって,「愛」を説くことになる。

 さて、そんな鳩ぽっぽはどういう風に選挙民に受け止められるのか、興味深い問題である。