パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

クレイジーキャッツをめぐる大いなる謎、その2

2007-03-29 21:44:11 | Weblog
 今朝、いつも買う産経新聞(100円なので)が売れきれだったので、代りに朝日新聞を買い、それを見ながら、朝マックを食していたら、小林信彦による植木等追悼文が目に入った。
 時間がなかったせいか、「入魂」の一文とはいかず、毎度お馴染み、新宿のジャズ喫茶の人気者だった頃のお話で、そこに、「その時点での人気者は(なんと!)石橋暎太郎だった」とあった。

 そうか、やっぱりそうだったのだ。エータローがリタイヤして、「クレイジーは大丈夫だろうか」と心配したのは私だけでなく、みなそう思っていたのだ。そして、もちろん、クレイジーはエータローがいなくても「大丈夫」だったのだが、その代り、植木等に引きずられるように(本人は決して本意ではなかったらしいが)「無責任」路線に流れてしまい、「これではクレイジーはダメになる」と二度目の心配をファンたちは強いられた、というわけなのだ。

 結論を言うと、ファンたちの心配、懸念は、最後まで遂に払拭されることがなかった。しかし、それでも、「クレイジーは絶対に面白いという信仰」(橋本治)は、ずっと生き続け、教祖(植木)が他界しても、まだ生きている……というわけだ。そして、多分、この「クレイジー教」の第一の信者は谷啓だと思う。今でも、トロンボーンをみながら溜息ばかりついているし。

 説明がたどたどしくて、我ながら歯がゆいのだが、おわかりだろうか?

 ……ますます分かりにくくなったかも。

 昨日は、期待(要するに、音楽ギャグの披露)になかなか応えてくれないクレイジーに業を煮やしてドリフファンになった、といったようなことを書いたが、実は、これにもちょっと説明が必要で、クレイジーに代るバンドとして、私は(多分小林信彦もそうだと思うが)、まず小野ヤスシの「ドンキーカルテット」に期待した。何故なら、芸風がクレイジーに似ていたからだが、残念ながら実力不足で大成はしなかった。
 このような二重の「がっかり」(というほどドンキーに期待していたわけでもないのだが……)にうちひしがれている時、ふと目を上げてみると、そこにドリフターズがいた、というわけなのだ。(もっともドリフターズの芸風は、クレイジーとは全然ちがうのだが)

 実現しなかったことを書いてもしょうがないので、実際の話を書くと、小林信彦は、こうして「時代」に流され流されて行き着いた末、植木等の代名詞となった「無責任男」という看板について、「個人の幸福に関して何の責任も持たない体制(=自民党政府)に対しては無責任な態度で居直るしかないというメッセージ」――すなわち“無責任思想”という思想的メッセージが大衆に受け入れられた結果だと書いている。(『日本の喜劇人』)
 
 これに対し、「え? 日本政府が無責任だから国民も無責任でよいなんて“思想”が、あり得るの?」というのが、月光三号原稿における私の主題だったのだが、昨日も書いたが、読み返して全然その意が伝わっていないので、ここで再度整理してみたい。

 小林信彦は、大略、次のように書いている。

 「事実を言うならば、『ニッポン無責任時代』(無責任シリーズ第一作)のヒットは明らかにフロックであった。クレイジー映画はこのフロックを乗り越える力のないままシリーズ化され、その結果、本来“バンドメン”であった彼らは音楽を捨てざるを得なくなり、残るは“悪のり”あるのみとなった。その“悪のり”を“体制に対する居直り”として一般世間が拍手喝采して迎えたのが一連の無責任ソングのヒットであり、無責任映画シリーズの大ヒットであり、こうしてクレイジーは音楽を捨てざるを得なくなった……」

 さて、だとしたら、小林信彦は、クレイジーの「悪のり」を助長し、彼らを音楽から遠ざけた「個人の幸福に関して何の責任も持たない体制に対しては無責任な態度で居直るしかないという“無責任思想”」には、批判的でしかありえないと思うのだが、そこが今いち、はっきりしない。いや、かえって、「是」としているようである。
 しかし、あらためて、“無責任ソング”、たとえば『スーダラ節』などをよく読むと、その真意は「ベンチでごろ寝」をすすめているわけではなく、「わかっているなら、やめなさいよ」とやんわりと戒めているのである。つまり、全然「無責任」なんかではない。これは「日本語」の解釈としてはっきりしている。(これは、主に金田一春彦の説を参照したもの、浄土宗の僧侶で、社会運動家でもあった植木等の父親は、息子の“無責任ソング”を、「親鸞の思想に通じる」と言って肯定したそうだが、それはつまるところ、金田一風の解釈と通底している)

 だとしたら、一連の無責任ソングのヒットは、「権力に対する居直りの思想(=無責任思想)が受け入れられた結果」というより、「大衆の守るべき生活規範の逆説的メッセージが、“真面目かと思えば不真面目、不真面目かと思えば真面目”に聞こえる植木等の不思議な二面性を持つ声とあいまって、人々に広く、かつ、たやすく受け入れられたもの」と考えられる。

 ということで、いずれ音楽を捨てざるを得なかったことの怨みについては、それはそれとして残るのだけれど、問題は、「無責任思想」なんて思想は――「悪人正機説」の親鸞思想に照らしても――そもそもありえないということだ。これだけは、やっぱり、はっきり言っておきたいと思うのだ。

 と思っていたら、朝日新聞はやはり言ってくれた。同日の「天声人語」に植木等の訃報に触れて、こう書いてある。

 「“無責任男”として有名になったが、根は誠実で、思慮深い人だったという。いわば、世の中の“無責任感”を一身に背負うという“責任感”があの笑顔を支えていたのではないか。」

 何を言いたいのだろう? 植木をキリストにたとえたかったのだろうか?

 多分、人語子は、「“無責任感”を背負う“責任感”だなんて、俺って頭いいなあ、いくらでも書けちゃうぞ」と思っているのだろう。しかし、「無責任」は、おそらく、肯定しようのないものなのだ。人語子は、このことに思い及ばず、「無責任思想」を説明し得たぞと舞い上がって、思わずキリストに喩えちゃったりしたのだ。
 つまり、今日の植木追悼天声人語は、「無責任思想」という「思想」があるとしたら、「詭弁」でしかあり得ず、詭弁だからこそ、植木=キリスト説でも、釈迦説でも、なんでもどのようにでも書けちゃうのだという格好の見本としか言い様がないのである。

 「クレイジーに対するこだわり」は、もう大分前にほぼなくなっていたのだが、訃報に触れて書き出したら思い出してしまった。長くてメンゴ。