パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

『あじさい日記』by渡辺淳一

2007-03-19 18:50:55 | Weblog
 産経新聞の日曜版に、渡辺淳一の小説、『愛の流刑地』のドラマ版の《解説》が載っていた。

 ヒット作に恵まれない元ベストセラー作家の村尾(岸谷五郎)は、すごい恋愛をして新たな作品のヒントにしょうと、女遊びを続けている。ある時村尾は編集者の祥子(杉田かおる)から、後輩の冬香(高岡早紀)を紹介され、二人はたちまち激しい恋に落ちた。だが冬香は人妻で、不倫を重ねるうちに思わぬ運命が……。

 読んで、え?と思った。「こんな《お話=恋愛小説》ってあるの?」と。

 本当かどうか知らないけれど、小説家とか役者などには、自分の「芸」のためにエゴイスティックな恋愛を重ねる人がいるそうで、そのことそれ自体をネタにした作品があったっていいとは思うけれど、だとしたらその場合、村尾は、冬香との恋愛において、それまでの、「女遊び」を否定せざるを得なくなるはずであり、ひいては、再度ベストセラーを出したいという希望も、自ら否定しなければならなくなる……と、そんなふうに物語は展開するはずである。それが、恋に「落ちる」と、「落ちる」という言葉を使う由縁だと思うのだが、この《解説》の書き手がそうなのか、あるいは渡辺淳一そのものがそうなのか、なんとも「頭の悪い文章」で、本当に、《解説そのまんま》のドラマかもしれないと思った。

 そこで、ちょうど、その渡辺淳一が、同じ産経新聞に『あじさい日記』という連載小説を書いていることを思い出して、読んでみた。

 主人公は妻子もちの裕福な医師で、愛人にマンションを買い与え、そこで頻繁に会っているが、妻と別れるつもりはない。一方、妻は、夫の行状を知っているのか知らないのか判らないが(あ、私が読んだ二回分では、わからなかったというだけです、はい)、誰かに「心ときめいている」ようである。
 主人公は、そのことを妻の日記を盗み読みすることで気づくのだが、その日記帳の表紙に「紫陽花」があしらわれていのである。

 さて、主人公の夫は、三月の半ばの日曜日(私が読んだのは、3月18日、日曜付けの第209回で、著者は、小説の掲載日と小説の進行をシンクロさせているらしい)、妻が外出した隙を狙って、妻の寝室に忍び込み、ベッドパッドの下に隠された日記を「よく待っていてくれた」と、うきうきしながら手に取る。(「よく待っていてくれた」ねえ……ま、いっか)
 ところが、その表紙の紫陽花が今までと違っている。よく見ると、花の下に、「冬紫陽花」と書いてある。
 夫は、「冬紫陽花」の存在を知らず、なんだろうと思う。紫陽花といったら、梅雨どきの花と思っていたからである。そんなこともあり、夫はこの妻の日記帳の「変化」を、ちょっと不安に思いながら読みはじめる――。
 
 《二月十九日
 今日から日記帳を更新する。とくに理由があるわけではないが、強いて言うと、前の日記帳は大分書き続けて余白が減ったのと、少し飽きてきたからである。 
 そんなとき、たまたま冬紫陽花の花模様の日記帳を見つけた。その花を見ているうちに、いままでのとはまったく違って新鮮に見えた。
 そう、この日記帳は、私の再生の日記にしよう。……》

 なんじゃ、こりゃー!である。夫の疑問に、妻が直接答えてしまっている。こんなので、「小説」と言い得るのだろうか?「とくに理由があるわけではないが」とか、「そんなとき、たまたま」とか、普通、日記には不要と思われる「弁解」じみた説明文もいかにも、「頭が悪い」が、「なんで日記帳を変えたのだろう」という主人公の疑問に対し、その日記帳のはじめに、「変えたわけ」が書かれているだなんて、あまりにも頭が悪い、悪過ぎる構成だぞ、と思うのだが、これは、渡辺淳一がここまで頭が悪いというより、読み手の読書体験に合わせたということなのだろうか。それとも、やっぱり、渡辺淳一の頭が悪いのだろうか。

 いずれにせよ、編集者が、このような小説を「是」としていること、あるいは、「是」とせざるを得ないのが今の現実だとしたら、一応、私も編集者のはしくれなんで、大大大問題と言わざるを得ない。
 しかし、「言わざるを得ない」ったって、現実に売れてるんだものなあ……。