パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

冬のサクランボ

2007-03-09 22:43:05 | Weblog
 二、三日前、夜の京浜東北線の中で、大分酒を飲んだらしい50代半ばくらいの男性二人、上機嫌で話している。横には、その男性の職場の部下で、お酒につきあわされたらしい若い女性が一人いて、こちらはほとんどお酒は飲んでいないらしいのだが、黙って話を聞いている。

 やがて話は「韓流ドラマ」の話になり、一人が、チェジウは身長が170cm以上あるので、俺はちょっと嫌だ、と話し出した。
 チェジウって、そんな背が高いのか。知らなかった。160cmあるかないかの、ちょうどいい(?)感じと思っていたが、あの顔つきで、身長が170以上というと、たしかに、ちょっと……という感じはする。

 そんなことを考えていると、若い女性が、チェジウの話が出た途端に、ちょこっと顔をしかめるようにしたのが目に入った。

 れれれ……? この女性はもしかしたら韓国人かな?

 というのは、もう大分以前のことになるが、小説家(?)の辻中剛先生に、いわゆる「韓国バー」に連れていってもらったことがあるのだけれど、そこで、お世辞というわけでもないのだが、歌手のケイウンスクの話をした。すると、韓国出身のバーの女性数人、一斉にブーイングをした。「嫌いだ」というのだ。
 どうも、要するに、日本で人気の出た韓国人は、「嫌いだ」ということらしい。
 はっきりいって、嫉妬だと思うのだが、そんな経験が一度あったので、この女性も韓国から働きに来た人かもしれないと思ったのだが、その後、男が、「韓国の人は、やっぱり歴史問題なんかで、日本の事を怨んでいるんでしょ? 日の丸焼いたりしているじゃない」と、その女性に聞いた。

 なるほど、やっぱり、この女性は韓国人だったのだ。

 そこで、彼女がどう答えるか、聞き耳をたてていたら、彼女は考え込むでも、ためらうでもなく、即座に、「あー、あれはテレビ向け」と答えていた。

 聞いた男は、この「意外な返事」に驚いたようだった。
 もちろん、私も驚いたが、韓国特集(月光22号)のために、ネットや本でかなり詳しく調べたりしたので、実は、予想がついて然るべきことなのだ。しかし、では、彼らの「本音」は、「親日」なのかというと、そういうわけでもない。ここらへんが、えらくややこしくて、いつも戸惑うのだが、要するに、彼らは「正直な嘘つき者」なのだ。ややこしいのは、「正直な嘘」があり得るというところにある。でも、からくりはえらく単純。

 たとえば、彼らに、「あなたの先祖は?」と聞けば、百%、「両班(貴族。高級官僚みたいなもの)です」と答える。
 「おかしいですね、韓国の人に聞くと、全員そう答えますよ。韓国人は全員両班の子孫なんですか?」
 「そんなわけありませんよ。百%、両班出身だなんて、あり得ないじゃないですか。ちょっと考えればわかるでしょう」
 「では、あなたは?」
 「私は、本当の両班出身ですよ」

 ……となるのだ。

 「韓国の男性はよくもてるんですよ。えっへん」
 「私に韓国人の友だち、たくさんいるけど、一つ、欠点がある。みんな、そう言ってえばる」
 「みんな、というのは言い過ぎだ。もてない韓国人だっていますよ」
 「あなたは?」
 「もちろん、もてます」

 というわけ。
 要するに、「嘘」を厭う気持ち、「価値観」が、そもそも彼らにはないのだ。

 韓国の昔話にこんなのがある。

 一人の両班がいた。彼はとても有力な両班だったので、彼にコネをつけてもらいたいと願う人々が門前市をなしておしかけるので、彼はいいかげん困ってしまい、「私を騙すことが出来たら、その人を両班に推薦しましょう」と宣言した。
 それから、多くの人が彼を騙そうとあれこれ工夫を凝らしたが、誰も彼を騙すことが出来なかった。
 その年も押し迫った頃、一人の男が彼の屋敷を訪れて、こう言った。
 「二、三日前、私はお寺の鐘ほどもあるサクランボを食べました」
 両班は、「そんなサクランボがあるものか」と言った。すると男は、「西瓜くらいのサクランボでした」と言い直した。両班は、「西瓜くらいのサクランボがあるはずがない」
 この調子で、男は少しずつ大きさの形容を小さくしていった。 
 両班は聞き飽きてしまい、「そんなんで、俺を騙せると思ってるのか、いいかげんしろ」
 と怒って、彼を追い返した。
 男は、家に戻ると、首尾のほどを聞く妻に、「うまく騙せたぞ。年の瀬にサクランボがあるわけがないのに、両班殿は、大きさばかりに気を取られ、そのことにまったく気がつかなかった」と言った。
 それを人づてに聞いた両班は、「一本やられた!」と自分が騙されたことを認め、男は高級両班にとりたてられた。めでたしめでたし。

 ――という話。

 これは、韓国(朝鮮)ではとても有名な話らしいのだが、六カ国協議とやらでも、北朝鮮は、官民あげて、「アメリカ、日本をどうやって騙すか」を懸命に考えているのだ。そして、騙せたら、「バンザ~イ」というわけなのだ。ヒルさんに、教えてあげたい。彼らは最初から、「騙すこと」しか考えていませんよと。交渉が行き違った結果、結果的に「騙す」ことになるのではなく、最初から、「いかに騙すか」しか考えていないのだと。

 以上、月光22号、「韓国の謎」特集を読んでください、ヒルさん。月光HPにて1000円→300円の大バーゲン中です!


体の神秘と台形

2007-03-07 19:36:50 | Weblog
 事務所のすぐ近所に子供達相手の「書道教室」があって、窓に、生徒たちの「作品」を飾っていて、それが時々おもしろいのだが、今、並べて飾ってある次の二枚は、今まで見たうちで、もっともおもしろい。

 《体の神秘》
 《台形》

 書き手はいずれも女の子だが、一つはなんでこんな文句を選んだのか、いろいろ過剰に想像できちゃうという意味でおもしろく、もう一つは、なんでこんな文句を選んだのか、全然想像できないという意味でおもしろい。

 といったあたりで、今日はお茶を濁させていただきます。

タフマン

2007-03-06 22:42:07 | Weblog
 なんだか、「源氏物語ブログ」になりつつあるが、また、『源氏物語』。

 「夕顔」で、夕顔に生霊となってとりついて殺してしまう六条の御息所が、それまで全然出て来ないと書いたけれど、調べたら、これは私の見落としで、エピソード風に書かれていた。

 御息所の家に忍び込んで一晩明かした翌朝、源氏は御息所のおつきの女性(女房)に促され、眠そうにしながら家を出る時、一人の女房が、まだ奥で寝ている御息所に、「見送って遊ばせ」と言って、帳を持ち上げた。御息所は、ただ頭を持ち上げて、源氏の方を見ただけだった。(御髪もたげて見い出し給へり)

 というのだが、要するに、御息所は、源氏にすっかり体力を搾り取られ、頭を持ち上げるのが精一杯だったというわけ。(と、これは、国語学者、大野晋の解説)

 しかも源氏は、見送りにお供したこの「女房」を、庭に咲く朝顔の花にたとえて、「折らで過ぎうき今朝の朝顔」と、手を取って誘う。タフだ。

 この朝顔の君は、機転のきく女性で、源氏の言う「朝顔」を自分の主人である御息所のことにすりかえて、源氏の誘惑から逃れるのだけれど、それはさておき、御息所が夕顔にとりついて殺してしまうには、こういう伏線がちゃんと敷かれていたわけだ。

 それにしてもタフである、光源氏は。

♪真っ赤なお鼻の……

2007-03-04 19:14:44 | Weblog
 「高齢とはいえ、夫ある身の空蝉」とは、空蝉が「高齢」ということではなくて、「空蝉の夫が高齢」という意味です。

 さて、源氏物語は、「若紫」、「末摘花」、「葵」といった辺り。

 「末摘花」は、源氏が悪友の頭少将と張り合って手に入れた女性が、明るいところで見たら、胴長でガリガリに痩せていて、しかも下膨れの馬面で、象のように長く、垂れ下がった鼻の天辺が寒くて赤いという、とんでもない醜女で、それを見て源氏がつけたあだ名が「末摘花」なんだそうである。(「末摘花」はベニバナの古名で、先端の花を摘んで赤い染料のもとにしたのだそうだ)
 それと知った光源氏は、その後、その姫君の元から足が遠のくが、しかし、並みの女性だったらそのまま知らんぷりで済ませても、「並み以下」であると、それは良心が痛む…というか、世間の口が気になってというか、源氏は彼女に衣類等の贈り物を頻繁に届けてその埋め合わせにする。

 「末摘花」の姫君は、来るのはお召し物ばっかりで、本人が来ないことを怨む和歌を添えて、そのお召し物を光源氏に返品してくる。著者(紫式部)は、ただ、やぼったい分厚い紙に一晩かかってようよう書いた稚拙な和歌は、文字のみきれいに書けているだけで、書き手たる姫君が、容貌だけで無く、知性・感性の方も鈍感極まりないことの証拠であると、酷評する。
 光源氏も、彼女の文を読むなり心外に感じて、翌日、召し使いの女達の控え室に、「それ、昨日の返事だ。届けてケロ」と、手紙を投げ入れる。(本当に、「投げ入れる」と書いてある)
 それには、「私と貴女は逢わぬ夜が多いというのに、わざわざ仲を隔てる衣などを寄越されるとは、更にいっそう逢わぬ夜を重ねようというのですか」(逢はぬ夜をへだつる中の衣手に かさねていとど見もし見もや)という、先日の姫君の行いを皮肉った内容(結構露骨な表現だ)の和歌が書かれている。
 
 それだけでない。著者は、その直前の回で、わずか10歳にして光源氏の心をとらえた美少女、「紫の上」を登場させているが、この「紫の上」が、歳よりも更に幼く、いまだに「お絵書き」などをして遊んでいる。この「お絵書き」に源氏をつきあわせ、「紫の上」が書いた女の鼻先を赤く塗る。もちろん「紫の上」は、源氏の描き添えた、その「赤い鼻」が「末摘花」の姫君の「赤い鼻」をからかったものだということなどわからないが、「赤い点」一つでみるみる滑稽になった絵を見るなり、傍らの鏡に自分の顔を映し、その鼻に紅を塗って、「私、不具(かたわ)になっちゃったわ。どうしましょう」と言って、源氏と二人で笑いあう。

 いやはや、よくぞここまで、といった、同性ならではの遠慮会釈のないからかいぶりで、当時の女性読者たちが、「言えてるー!」と大喜びしている様がありありと浮かんでくるが、一方で著者は、源氏の和歌について、「うちの姫君の和歌は、そりゃー、拙いかも知れないわよ、でも、実意がある。源氏の君の和歌は言葉遊びに過ぎないわよ!」と、「末摘花」の姫君に仕える女に反論を言わせたりしているし、姫君自身も、自分の醜さをわきまえ、源氏もその美徳を認めた結果、幸福な生涯を送ることになるのだそうだ。

 それにしても(誰もが言うことだろうが)、紫の上のロリータアイドルぶりはどうだろう! 「○○ちゃんが、雀の子を逃がしちゃったー!」と半べそをかいている女の子。源氏は、この幼い少女を「妻にしよう」と決意して、「あまりにも若過ぎます」という周囲の反対を押し切って、半ば拉致するようにして連れてきてしまう。
 でも、このロリータちゃんもだんだんと大人になって行き、やがては(逃げていった雀の子供のように)「はかなく」なるわけで…それが、どう描かれていくのかは、「紫の上」があまりに可愛く描かれているせいか、正直言って見当がつかないのだが、今後の『源氏物語』の一つの読み所になるのだろう。

 「月光」のHPの「バックナンバー」を構築中です。よろしく。

光源氏ボス猿説

2007-03-02 22:09:38 | Weblog
 近所の輸入食品屋で、フェイマス・エイモスの二月一杯で期限切れクッキーが10個で100円で売っていたので、買った。
 フェイマス・エイモスといえば、チョコクッキーだが、二月までは、5個100円で、チョコチップのクッキーもあった。でも、今回の“期限切れ”は、レーズンクッキーだった。
 味は……さすがに、若干落ちているかも知れないが……味は二の次という貧乏人のために、不二家も全商品9割り引きセールとか、かましてやればよかったのだ。誰に「かます」のかって、もちろん、マスゴミ。

 誰だって、心の中では、一日くらいの期限切れのミルクを原材料に使ったからといって、極端に味が落ちるとか、お腹を壊すとか、まして“命が危ない”なんてことはほとんどまったくあり得ないことを知っている。でも、それを言うと、不二家を許すことになってしまうから、したくない。
 しかし、「許す」ったって、不二家事件では、ちょっとした規則違反があっただけで、“被害者”が出たわけではない。被害者がいない以上、誰が不二家の「罪」を告発できるだろう。
 それなのに、それを、「許す、許さない」という問題に話を持っていってしまったのが、「マスゴミ」というわけだ。

 ちっちゃい問題で大騒ぎする一方で、本当に重要な問題、たとえば、タミフルで、子供を中心に54人も死んでいることについての厚生省に対する責任追求は、極めて甘い。
 「タミフルを使わなかったらもっと死者が出ていたかもしれない」という、役人の「恫喝論理」にあっさりと従っている。

 それはそうと、数年前からだと思うのだが、マスコミ、特にテレビニュースなどで、「○○氏が○○日に亡くなっていたことがわかりました」みたいな言い方をするのが気にかかる。
 訃報などの場合は、昨今、葬式のあり方が大分変わってきたみたいなので、そのためかと思うが、事件報道などでも、「~していたことが、わかりました」という言い方がめちゃくちゃ多い。多分、警察等の役所の発表を右から左に流しているために、こんな言い方になるのだろうが、ひどく、間が抜けている。

 こんなことを書く積もりでは無かったのだが…では、何を書こうと思っていたかというと、『源氏物語』。
 先週、フリーマーケットで谷崎源氏全8冊を500円で買ってきたのだ。
 その前、角川文庫の与謝野源氏を少し読んだのだが、面白そうなのだが、さっぱり頭に入らない。それで、とても読み通せそうもないと思っていたのだが、フリマで「谷崎源氏」を見つけて、立ち読みしたら、『細雪』に雰囲気がそっくりで、これなら読めそうと思ったのだ。

 というわけで、数日前から読んでいるのだが、一般的評判として「谷崎源氏」は、雰囲気的にはもっとも原作に近いが、それだけ「まどろっこしい」ので、「今の人には読みづらい」というものらしい。そうかな~。そんなことはないと思うが、ひと各々だからなんとも言えない。
 あと、最近評判なのが、全編「京言葉」を使った源氏物語で、ネットで少し読んだが、「まどろっこしい」雰囲気は出ていたが、女性が皆、舞妓さんのように感じられて、いまいち。でも、面白そうではある。

 まだ読みはじめで、夕顔が六条の御息所の生霊に殺され、その御葬式を済ませ…、といった辺りなのだが、全然予備知識が無かったので、いきなり殺されるのにびっくり(死んだ夕顔を抱きかかえる源氏の前に、一瞬、生き霊が姿を見せる箇所は、物凄く怖かった)。
 そもそも、源氏と夕顔の枕元に立った生霊が六条の御息所だというのは、後で調べてわかったので、普通に読んでいたら絶対にわからないはず。変だな~と思っていたら、ウィキペディアに、源氏が13歳から16歳の間までを描いた巻が一つだけ欠けているのだそうだ。その間に、「六条の御息所」と出会うことになると。

 なんだ、そういうことだったのか。だったら、一言断ってくれればいいのに。

 あと、難渋しているのが、生活スタイルの現代との違い。

 源氏は、いわゆる「宮仕え」なわけだが、宮仕えの男どもは、ほとんど仕事場で寝起きしていて、妻や愛人のもとに時々通う、という形らしい。もちろん、「妻問い」という言葉は知っていたけれど、具体的にどういう生活になるかというと、こんな風になるということはわからなかった。
 「こんな風に」とは、たとえば、今日は事務所の(宮廷内の)方角が悪いので泊まることができないから、と他人(たしか同僚だったかと)の家に押し掛け、そこの娘や妻といい仲になってしまうとか。
 「ええええ?」という感じなのだが、こうして押し掛けた同僚の家の、その同僚の父親の後妻、空蝉に対する源氏の「口説き」はすごい。あんまりすごくて、高齢とはいえ、夫ある身の空蝉もつい許してしまうわけだが、そのことに対する自己嫌悪で、次からは拒み続ける。う~ん、深い(のかな)。

 予備知識が無いため、かえって、これから楽しめそうであるが、しかし、女系社会にあって、実権は、実際には男が握っているといったあたりの「社会の有り様」がなかなか掴みにくい。動物園の猿山みたいなものか。