パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ただいま読書中――『革命的な あまりに革命的な』編

2007-03-14 23:00:57 | Weblog
 京浜東北線で見かけた韓国人女性の件について、若干のつけたしを。

 私が見聞したのは、上司らしき日本人初老男性二人と、その部下らしき韓国人女性の会話で、日本人男性が、「あなたがたは、歴史問題では我々を相当怨んでいるのでしょう? 日の丸焼いたりしてるし」と言ったのに対し、韓国人女性が「あれはテレビ向けです」と答えたのだが、では、この韓国女性が日本を怨んでいないかというと、そういうことでもない。

 ここで、話がわからなくなるのだが、要するに、こういうことだ。

 もし、この韓国女性がテレビカメラの前に立ったらどうなるかと言うと、百%、日本人の蛮行を非難して、狂ったように日の丸を焼いてみせるはずである。「あれはテレビ向けです」というのは、「自分がテレビの前に立たされたら、同じようにします」、という意味だ。

 したがって、日本人男性がテレビで目撃した日の丸を焼いた男に、日本人が聞けば、「いやあ、あれはテレビ向けニダ」と答えるに違いないのだ。


 すが秀実の『革命的な、あまりに革命的な』を購入、読書中。

 すがの執筆動機は、はばかりながら、私が月光の14号で連合赤軍を取り上げた動機と同じはずであって、その興味から、遅ればせながら買ったのだったが、すが秀実はマルクス主義者であって、そのことに居直ったかのごとく、啓蒙的配慮一切無しに、平然と、自ら信じるところにのっとって、書きすすめる。

 対する私は、マルクス主義者なんかでは全然ない。第一、マルクスの本なんか、読んだことがない……いや、『経哲草稿』のトビラは読んだ。「精神は物質に憑かれている」という文句が書かれている。うん、かっこいいね確かに。でも、バークリーは「物質は精神に憑かれている」と言ったわけだが。ともかく、そんなわけで、わかりにくいったらない。

 しかし、それでも、一応、「なるほど」と思ったところはあって、それは宇野弘蔵というマルクス経済学者に関する箇所で、すが秀実は次のように解説している。

 宇野は、ヘーゲル/マルクスの史的唯物論の「革命は歴史の必然として訪れる」というマルクス主義の要諦を、思いきりよく退け、革命は「必然ではない」と言い切った。(その代りに起こるのが、「恐慌」ということらしい)
 「革命が必然ではない」のなら、どうするか。マルクス主義者でない者にとっては、そんなのはどうってことないのだが、宇野はマルクス主義者である。もちろん、すが秀実も。つまり、「どってことない」ですまされない。では、どうしたらよいか。
 一つの方法は、革命を永遠の未来に先送りする待機主義、もうひとつはブランキズム(一揆主義、プチブル急進主義)への盲目的突進となってしまう。

 これが宇野理論の欠点であったが、これに対し、宇野の弟子であった岩田弘という経済学者が、「革命は必然ではない」という宇野理論を、「革命が必然でないからこそ、主体的実践が要請されるのだ」と読み替えた。

 これが、1968年を中心に燃え上がった新左翼を支えた根本理論となった。

 ……ということらしい。

 つまり、マルクス主義者であり続けるためにはどうしたらよいか、というのが、マルクス主義者にとってもっとも重要なことである。というわけで、したがって、マルクス主義者でないものにとっては、「関係ない話」なのだが、「1968年的現象」を総括的に、かつ正しく理解するには「関係ない」と言ってすますわけにはいかないと、すが秀実は主張している……と思うのだが……それはそれでわからないでもないのだが、正直言って、「マルクス主義者であり続けるためにはどうしたらよいかが、マルクス主義者にとってもっとも重要なこと」というのは、猛烈にくだらないと思う。(まあ、これは私の誤解かもしれないが、)

革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論

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