パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

花田清輝について

2007-03-12 22:16:07 | Weblog
 実は、私は今、花田清輝に少々はまっている。
 そのきっかけは、「映画の研究」の執筆(というと大袈裟だが、事実には違いない)資料として、大分以前に買ったまま本棚に放り込んであった河出書房新社のアンソロジー誌、「人生読本」の「映画」編をそぞろ読んでいる時だ。かの、『太陽がいっぱい』のホモ構造を暴露したことで有名な、淀川長治と吉行淳之介の「恐怖対談」も採録されていて、これがまた抜群におもしろいわけだが、花田の「チャップリン」という原稿もまた、「恐怖対談」に負けずに、抜群におもしろい。それも、「思想」つきだ。(「恐怖対談」に、「思想」が皆無とは言わないが……)

 たとえば、次の文章。

 『(大衆の)無告の代弁者であり続けるということ――これがチャップリンのおのれ自身に課した、終生の課題であった。それでは、いったい、彼の思想の独自性とはいかなるものであろうか。しかし、その問題にはいるに先立って、わたしは、ちょっとあなたに、思想というものの所在について質問してみたいような気がする。たとえば、あなたの思想だが、あなたの思想は、そもそもどこにあるのであろうか。どうか自信ありげに、指をあげて、軽く額をたたいたりしないでいただきたい。周知のように、近ごろでは、ヴァイオリンケースの中に、かならずしもヴァイオリンが入っているとはかぎらないのである。しかもあなたの頭の格好は、あなた以外の人間のそれと、かくべつ代り映えもつかまつらない。したがって、同じケースに注目するくらいなら、わたしは、あなたの頭よりも、あなたの頭の上にのっかっているあなたの帽子に注目したいと思う。少なくともあなたの帽子には、あなたの頭よりも、あなたの思想の片鱗らしいもののひらめきが認められるのではなかろうか』

 もちろん、この「あなたの頭の上の帽子」は、チャップリンの山高帽のことだ。

 『かれは、かれのくたぶれた山高帽子を脱いで袖で丁寧にほこりをはらう。それから、からっぽの帽子の中に種も仕掛もないということを、ちゃんとあなたがたに検討してもらったあとで、ゆうゆうと、そのなかから、コンミュニズムや、ヒューマニズムやアナーキズムや――その他もろもろの思想を取り出してみせるのである』

 もちろん、花田はチャップリンが“コンミュニストで、ヒューマニストでアナーキスト”であると言いたいわけではない(そうかもしれないが)。花田の見る、チャップリンの思想とは、シジフォス的な「再出発」の思想、あるいはそれに依拠した「抵抗」の思想である。
 たとえば、シジフォスは、山のふもとから山の天辺に岩を持ち上げ、天辺につくと、決まって岩はふもとに向かって転がり落ちる。チャップリン映画の主人公(=チャップリン)は、このような「失敗」をくり返すが、そのことの本質は、実は「失敗」にはなく、「再出発」にあるのだというわけである。ところが、世の多くの人々は、シジフォスの失敗に、シジフォスの「運命」を見てしまい、ペシミスティックな陶酔感に浸ってしまう。

 このような、「再出発」の思想を持って花田は、1950年代の後半から台頭してきたナルシスティックな終末観に心の随まで冒された若者たちを牽制し続けたが、その若者たちに熱烈に支持されていた吉本隆明との論争に、吉本のそれよりも理論的にまっとうでありながら、ナルシスティックな時代状況を「誤認」していたことで、その意が通らず、全面的敗北に終わる。(すが秀実『革命的な、あまりに革命的な』など)

 いや、必ずしもそうではなく、花田は時代の趨勢からいって勝ち目のないことを自ら悟って、自ら身を引く形で論争を終えたと見る人もいる。私としては、こちらのほうが話がおもしろくなるので、好みである。
 「好み」というのもなんだが、その私が期待する「話」とは、「誰某さんが今生きていたらどんな風に言うだろう」とよく言うが、花田清輝は、その「誰某」候補の、ナンバーワンじゃないかと、花田を知った今、私は思うのだ(申しおくれたが、花田は、1974年に亡くなっている)。だとしたら、その花田が、「生前からこの事態は全部見えていたよ」、と言ってくれたほうがおもしろいではないか、とまあ、そんなことなのだが……。