パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「無限の不思議」について

2005-11-01 02:48:10 | Weblog
 無限について。
 たとえば、自然数(0、1、2、3、4、……n)全体の数と、偶数(0、2、4、6、8、……2n)全体の数は、どちらが多いか? 一見、偶数は自然数の半分(=部分)じゃないかと考えがちだが、0→0、1→2、2→4、3→6、4→8……と並べる(これを、「一対一対応」という)と、どこまでいっても、すべての自然数にすべての偶数が対応していることがわかる。つまり、部分(偶数)は全体(すべての自然数)に等しい、というわけです。
 ただし、この「事実」は結構昔からわかっていて、ガリレオも、「無限の不思議」としてはっきり書いている。(ガリレオは、その例として平方数、1→1、2→4、3→9、……をあげている)
 そもそも無限については、実は二つの考え方があって、一つは、無限とは可能性に過ぎないとする「可能無限」の立場。これはアリストテレスが主張した事で有名で、ずっと主流だった。今でも「可能無限」の立場を取る人は少なくない。
 もう一つは、無限も数えることができる、すなわち実在するとする立場で、「実無限派」という。中世の神学者ニコラス・クザーヌスが主張したことが知られているが、クザーヌスが神学者であったことでわかるように、無限=神=実在するという立場で、神学上はともかくも、科学学問的にはずっと傍流だった。もちろん、ガリレオも「可能無限」の立場で「部分が全体に等しい=ナンセンス」とする立場だし、大数学者のガウスも、「無限とは、言葉のあやにすぎない」から数学者たるもの、決してこれをまともに扱ってはならないと言っていた。
 ところが、20世紀の初め頃、カントールという数学者が、この「無限数」を数学的に扱う方法を発見した。それは、数を数えるのではなく、数の「濃度」を考えようという発想で、カントールは、それをヘブライ語のアルファベットのAにあたるアレフで表し(オウム真理教が名乗っているアレです)、自然数のアレフ(濃度)を基本濃度として、アレフ・ゼロと命名した。そして、自然数と一体一対応する数は、自然数と同じ濃度を持つと考えた。たとえば、自然数の部分である偶数(あるいは奇数、あるいは平方数)が自然数の全体に等しいのは、偶数等の「濃度」が、自然数の「濃度」と等しいという意味である。

 「な~んだ、そんなことか」、と言われるかもしれない。たしかに、無限にあってはすべて、アレフ・ゼロである(「濃度」が等しい)ということなら、「な~んだ」と言ってもいいかもしれない。すでに知られていた、「部分が全体に等しい」という「無限の不思議(パラドックス)」を「濃度」で説明しただけとも考えられるからである。ところが、「よく調べると、アレフゼロより大きい濃度を持つ無限があることがわかった。それは、「実数」である。
 「実数」とは、数直線上にびっしりと途切れなく詰まっているとされる「数」で、たとえば、数直線で「〇から1」までの間に詰まっている「実数」を、自然数と一体一対応させると、「実数」があまってしまうことがわかったのである。
 ここで、カントールは止まることなく、さらに考えた。
 まずカントールは、実数を、数直線上に隙き間なく並んでいる数という意味で、「連続体」と名づけ、その濃度を「連続体濃度」と名づけた。(連続体濃度は、その中に部分集合の集合をふくむことで、アレフよりさらに大きい濃度のアレフ、つまりアレフ1、アレフ2……とこれまた無限に大きくなっていくが、それについては割愛する)
 ここで、たとえば、一個より多い最小の個数は二個、二個より多い最小の個数は三個……と無限に数えていくことができるわけで、これを「自然数は可算濃度をもつ」と呼ぶけれど、この考えを援用し、自然数における可算濃度(=アレフ・ゼロ)よりも大きい最小の濃度は何であるかというと、それが連続体濃度(アレフ、あるいは、さらにアレフ1、アレフ2……)であろうとカントールは考えた。そして、自然数1と2の間に「中間の自然数」が存在しないように、可算濃度(アレフゼロ)と連続体濃度(アレフ、アレフ2、アレフ……)の間にも「中間の濃度」は存在しないだろうと予想した。
 これを「連続体仮説」といい、カントールは簡単に証明できるだろうと考えたが、実際には超難問で、ついにできぬまま死に、後に、ゲーデルとコーエンによって、「証明できないことが証明」された。言い換えると、連続体仮説は「偽」であっても「真」であっても、どちらでも「論」はきちんと成り立つというのである。じゃあ、そんなものをわざわざ言いたてる必要もないではないかというと、そうではない。なぜなら、それが存在しないと「論」が成り立たないからである……。

 と、まあ、これまで無限について読みかじったことをまとめてみました。いかがでしょう。うさぴょんさん。
 ともかく、無限においては「部分が全体に等しい」ことは、19世紀以前は「無限の不思議=パラドックス」として知られていたけれど、その後、パラドックスなんかではなく、「事実」であることがわかったというわけです。(「事実」と書いちゃうのはちょっと語弊があるような気もするけれど)

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
不思議は不思議。 (うさぴょん)
2005-11-01 21:56:18
恐縮です。

「これが宇宙だ!」から読み返しているところで、・・・途中でヴァグナーのDVDに逃避!
不思議が不思議。 (うさぴょん)
2005-11-02 16:22:35
どうして「証明できないことが証明」されたのか素朴に疑問。
地方の蛙 (松尾の蛙)
2005-11-05 06:20:20
初めまして

  ガリレオの望遠鏡で覗いていたら、見えない世界を見つけましたので、好奇心に導かれて参りました。

もっとも素朴な世界は最も深遠なのかもしれませんね。

                    敬具  

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