パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

絞り柄のTシャツ

2011-05-17 22:13:13 | Weblog
 世田谷美術館、第13回「写真の地層」展に納入。

 最初、前回とは違うものを、と考えていたが、結局同じもの、というか、その一部をレイアウトを若干変えて展示することにした。

 環境を変えれば、一度みた人でも、ちがう印象を持つだろうと。

 ちなみに、下の写真は小松浩子さん、上の写真は、桑原敏郎氏の作品の一部。

 「写真の地層」展は、毎回、いわゆる「概念写真」的な傾向を持つが、わたしの写真は、見ての通り、「概念写真」ではない。

 しかし、写真とは、写真という概念を写すもの、あるいは、関わりのあるものという気持ちは強くあり、たとえば、「川口市の現在を写す写真展」に誘われたとしたら、「川口市の現在」なんて「概念」はないはずで、参加するとしたら、やはりこっちになるのだろう。

 そして、おもうに、その「概念」は、かつては「動物園」、今は、「日常」ということになるのだろう。

 ところで、一般的に「日常」というと、イコール「私の日常」なのだけれど、「概念としての日常」は、そうではない。

 「your village――故郷+〈故郷〉」の柳本尚規風に言えば、「あなたの日常でもあれば、私の日常でもある〈日常〉」ということになるだろう。

 5・18日(水曜日)~22日(日曜日)までやっているので、よろしかったらおいで下さい。

 会場に、70年代風の「絞り柄のTシャツ」を着ていったら、谷口雅、金村修両氏に「年寄りの冷や水」と冷やかされた。

 年寄りでなくても、今日の天候では、Tシャツ一枚では、寒い。

 幸いにも、傘は持っていたが、傘を用意するくらいなら、ちゃんと上着を着てくるべきだった。

 震えながら、山手線に乗ると、中学生の男子から席を譲られ、ショックを受ける。

 ありがとう、中学生君。
 
 なんだかんだ言いながら、以前より、「お互いに他者を気遣う」ようになったという点で、日本はよい方向に向かっている、と思うこともあるのだ。

 もちろん、そういう「気遣い」は、「日本は一つ」だからではなく、逆に、日本にはいろいろな人(民族)が暮らしているという現実からきている、と考えたいし、そうでなければならないと思う。

 

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