パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

当事者は誰か

2013-03-20 16:06:07 | Weblog
 今日、休みだということを知らずに会社に来てしまった。

 することがないので、ブログ、mixiにアップしてから、お昼用に買ったタツヤの牛丼を食べて帰ることにした。

 数ヶ月前は、逆に、休みと勘違いして電話で呼び出されるし、全然、社会人としての自覚がない。

 それはさて、手元に「at」という、太田出版が出している雑誌があり、手持ち無沙汰で、ぱらぱらと見ていたら、上野千鶴子が、インタビューを受けていて、グローバリゼーションについて、次のように言っていた。

 「グローバリゼーションが起きれば、国家間格差として発生していたものが、ローカルな場で階級間格差として現象するだけのことで、格差の発生自体は抑えられないでしょう。これからはもういっぺん、階級(クラス)が主題化される時代になると考えています。マルクス主義とは別の意味でね。その気と、貧民や低階層からどのような思想が生まれるでしょうか。」

 これは正しく、慧眼な見通しだと思うが、問題は、日本に「階級」が、実質的に存在しないことだ。

 上野千鶴子は、インタビューで「ボキャ貧が問題なのだ」と言いつつ、「勝ち組」「負け組」という言葉を使い、「負け組」の「当事者主権」を確立せよ、と言っていたが、「負け」という言葉をかぶせられた瞬間、当事者意識なんか、なくなってしまう。

 インタビュー記事のタイトルは「生き延びるための思想」だったが、「負け組」のレッテルを貼られたまま、「生き延びる」なんてできるか!

 と言うと、上野千鶴子は、「あ~ら、女はできるわよ」と、待ってましたとばかりに呵々大笑するわけだが、そうじゃない。

 「負け組」は「正しさ」、すなわち、「義」という観念を無に帰すような言葉で、それでもそれしかないから、「ボキャ貧」なのだが、それを私は問題にしたいのだ。

 昔、江戸時代の「江戸っ子」は、その日暮らしの貧民階層で、「その日暮らし」だから「宵越しの銭は待たねえ」と啖呵を切り、追いつめられたら、自分たちの長屋に放火して、普請の工事を招き寄せ、この繰り返しで江戸は大きくなった。

 つまり、貧しいこと、無産者であることが「正しく」自覚され、また扱われていたのだ。

 「グローバリゼーションが起きれば、国家間格差として発生していたものが、ローカルな場で階級間格差として現象する」という上野の発言もまた、斯く理解されるべきだと思うのだが、数多いる論者は、さっぱりそこら辺りの「理解」に乏しい。

 上野千鶴子は、「当事者」たちが生活の言語だけでなく、思想の言語を獲得しなければならないという。

 曰く、「私は当事者になれなくても、そういう人たちの同伴者でありたいし、そこに新しい言葉が登場したときに、それが思想的な事件だと驚きをもって迎えることのできる立会人でありたいと思っています」とえらくまたヒロインチックに語っているけれど、実際には上野千鶴子は東大の教授で、抜群の「勝ち組」で、そういう自分の社会的位置を絶対に失いたくない、そういう行動原理で動いているとしか思えない。

 一時期頻発し、今も、夏になると必ず報じられる、駐車場の車に放置された赤ん坊が熱中症で死ぬ事件。

 あの「当事者」は誰か?

 もちろん、一番目は「赤ん坊」だけれど、「当事者意識」を自覚的に持ち得るものは、放置して、パチンコに熱中していた母親ということになる。

 上野千鶴子は「自己責任」という言葉が一番嫌い、大大大大、大っ嫌いと記事中で言っていたが、世間の多くは、この熱中死事件を「母親の自己責任」だとして、駐車場の管理者の責任とは見ていない。

 上野千鶴子は、この事件については何も言っていないように思うけれど、「母親の自己責任」と思うのか。

 魯迅じゃないが、大事なことは「子どもを救え!」であるはず。

 原発事故についても、事故が起きた責任の一端は、反対運動をしていた人たちにある。

 彼らの一部だとは思うのだが、原発事業者が安全対策をしようとすると、「原発が安全でないことを当事者が認めている!」と噛みついていた。

 「なぜ事故が起きてしまったのか。我々の反対運動のやり方がまずかったのではないか」と反省する必要はあるだろう。

 少なくとも、「我々の言った通りじゃないか、ざまあみろ」とは言えないはず。

 上野千鶴子は「ザマーミロ」と、最近しきりに言っているが、いろいろな意味で、当事者の一人である上野千鶴子に責任はないのか?

 それとも、「ザマーミロ」で済ませるつもりか。

 

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