パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

 永田洋子の訃報にみる[絶望]の深化

2011-02-07 15:14:28 | Weblog
 本棚を整理していて、もう一冊、興味深い文章を見つけたのだが、それは、竒しくも、昨日、訃報が報じられた永田洋子、つまり連合赤軍事件についての、同時代の、しかし、例外的にきわめて明晰な文章だった。

 何はさて、引用。

 『…今回の事件ですべての報道が故意に触れない共通の一点があることを指摘するものもいない。それは、彼らが殺したのがすべて、彼ら自身の体制の内側の者であって、一般市民または第三者ではなかった、ということである。(野次馬として至近距離に近づいて殺された)軽率なスナック経営者や、機動隊の隊員などは、彼らの安全を脅かす立場にあったし、従って、“彼らにとっての敵”であったから、彼らが殺すことは当然の問題であろう。…(略)赤軍外部の粛清については、彼らの体制での倫理が、これを裁くであろう。人はそれを、自己の倫理の問題として発言する以上、自らもその体制に入らねばななるまい。
 リンチとは、そのように個別的であり、かつ、外的世界を関係をもたないものである。彼らを「悪い」ということをやめよう。
 彼らは「誤って」いたかもしれないが、「悪かった」か、「良かった」かは、我々の判断の範囲にはないからである。』

 実は、この文章はSMマニア雑誌「風俗奇譚」の巻頭論文「今月の言葉」で、週刊サンケイが、浅間山荘事件とそれに続いて明らかになった連合赤軍のリンチ事件を『あなたはどこまで残虐になれるか」という「何とも後味の悪い特集記事」に関連したもので、なんで「後味が悪い」かというと、週刊サンケイに限らずNHKをはじめとするすべてののマスコミが、みな「人命の尊重」と第一に看板に掲げているのだが、だったらなぜ、立法、行政、司法の三権の中軸に、多くの“虐殺関係者”、“殺人の共同正犯者”が入っていることを指摘しないのか、というのである。

 筆者は森下高茂という人であるけれど、私が興味があるのは、立法、行政、司法の三権の中軸に、多くの“虐殺関係者”、“殺人の共同正犯者”が入っているという「事実」について、この森下高茂氏の言葉にきわめて確信的なもの、きわめて「身近」で見聞したような「感じ」が見受けられることだ。

 そしてれは、前回、引用した「みんなの幸福」の序文における希望に満ちた文章が、30年を経て、次のように絶望的に変化している(ように私には見える)。

 森下氏曰く、

 「一種の拘禁ヒステリーと彼らを呼ぶ、法務省総合研究所第二兼機部長某(の発言)には、一方での公的機関の残虐を容認した人間が、他の残虐を許すまいまいとする、戦中以来の唾棄すべき人間層が二重写しにになってくるではないか。(そこには)我が国の現状が、共通の容認された倫理をもたずに、経済上の力だけを“全体として”もつに至った不幸な動物集団である、という認識を我々が自身に問いかける時期が到来したようである。」

 というのである。

 この72年における「絶望」は、全く払拭されずに、今に至っていると言っても過言でないだろうと、私は思う。

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