Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

体 罰

2013-02-04 18:03:09 | 未分類
ちょっと一服

教師による子供への暴力(=犯罪)について、呆れるほどの量が報道されています。
これらを見聞きして、氷山の一角が露見したと考えます。

明治維新後、教育令第46条(明治12)、小学校令第47条(明治33)、国民学校令第20条(昭和16)、そして現在の学校教育法11条に体罰禁止が法制上明文化されています。

教師の質には何ら期待するところはありませんが、退職金減額に伴う学期途中での退職に対して、「労働者」、「聖職者」の視点から様々な意見が出ていますが、お門違いと考えます。

教師は「労働者、聖職者である前に人間である(先立つ)」視点が皆無です。教師の暴力(=犯罪)についても、このことを教師自ら自覚していない当然の結果と考えています。
ミッシェル・フーコーの「監獄」、「権力」を持ち出すまでも無く、規範、統制、監視のシステムの職業(再生産)に化していると考えます。

「いじめ防止対策基本法案(仮称)」では、重大事案は学校、教育委員会が市町村長への報告を義務付けていますが、全国の教育委員会は何故異議、反対をしないのでしょう、行政委員会制度を導入している意義を認識していないのでしょうか。

教師も教師なら教育委員会も教育委員会と考えます。

維新後の学校教育は、体罰厳禁に貫かれていますが、教師自ら踏み躙っている原因は教師自身にありますが、敗戦後半世紀以上経ちますが軍隊内務書による軍隊教育における体罰・陵辱が、色濃く残っていることが背景にあると考えます。

その残滓である良い(悪い?)典型が、「連帯責任」(無責任の極みです)です。「東電=原子力ムラ」は原発メルトダウンに関して誰一人として責任を取っていませんし、また、あへ総理の「勇ましい言葉」の責任は、あへ総理自身取る気は毛頭ありません、前回のように投げ出せば良いのですから。


「フーコー・コレクション4」(ミッシェル・フーコー ちくま学芸文庫)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿