みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#17 信仰の防衛

2021年01月05日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p18~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

ヴァンティル教授が多くの力点を置いているのは、クリスチャンは、自身の信仰を弁明する時に「理性に依らない事実」(brute facts)に訴える必要はないということ。

これは全く正しい。

しかし、このことが、信仰のための弁明において、事実や現実に訴えることはできないということを示唆するということではない。

できないとすれば、他の何に訴えればよいのか。

難しい点は、未信者の事実に関する知識とその知識を説明していく理論とを区別することができないことに端を発している。

後者においては、「理性に依らない事実」に屈することは不適切ではないのかと考えられている。

しかし、幸いにも、人が行なっていることは言っていることよりも良い場合が多い。

われわれはこの矛盾を利用する必要がある。

e.Van Halsema

以前に言及したように、Van Halsemaは、私ヴァンティルが、クリスチャンとノンクリスチャンは論理に関する哲学が異なっているだけでなく、異なる思考法則に従って思考するという観念に拘っているのではないかと想定している。そして、私ヴァンティルが信仰者と非信仰者の間の「事実性の共有」を否定していると、彼は言っている。彼の批判全体は以下のように要約される。

明らかに、ヴァンティル教授の見解は、クリスチャンとノンクリスチャンの「論理法則」は全く異なり、それぞれクリスチャン用とノンクリスチャン用が存在するとしている。この「事象的」一撃により、ヴァンティルは共通のロジック(すなわち、考え方の共通法則)を否定する。事実性を共有することにより、ある意味で、否定された、弁証論的議論が明らかに不可能となる。

にもかからわず、Van Halsemaも、以下のように譲歩している。

彼ヴァンティルが首尾一貫しているかどうかに関してと同じように、彼の見解が正しい、あるいは彼の記述様式が正解であると確信しているかどうかは、さほど問題ではない。議論の中で欠落している部分や過剰な部分は、ヴァンティルの業績の中で目立つ部分ではあるけれども、それらの中から反対意見を支持する優れた文献を集める必要がある。しかし、このような異論を唱える評価が問題を解決されるために公表されなければ、一方のみに有利な証拠はヴァンティルの著作集において不幸な反論となる証拠にすぎない。その反論とは、最初から最後まで同じ驚きの声だ。

つまり、Van Halsemaによれば、彼がわたしヴァンティルに下した評価のための恐るべき資料が存在する可能性を示唆している。

もちろん、そのような証拠が存在しているとしても、また、私の観念論的嗜好癖に関して、「事実は事実」という私の思考傾向に関して彼が生み出した評価がいままで通りであれば、私自身の見解において自己矛盾があうということが証明されるのだろう。

しかし、少なくともその場合において、私は観念論的あるいは現象論的考えの持ち主ではないと言えよう。

コメント:

ここも非常に難解。

「理性に依らない事実」というのは、文脈からすると(神による)啓示のことのようだ。

クリスチャンとノンクリスチャンの物の考え方やロジックの立て方は根本的に異なるというのがヴァンティルの見解と思われる。

参考:

正義や真理のために苦しむこと

聖書契約の3つの特質

自分を知恵のある者と思うな

宗教右派のクリスチャンは政治に関わる前にまず学ぶべきだ

世界の歴史は、神の霊と悪魔の霊の地上における戦いのそれである



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