☞ Sinclair Ferguson: Loving Your Enemies
24分24秒から33分21秒まで。
◇◇
他の言語でもそうですが、英語を使う時、文法学者が言うように、異なる2つの法を使って言葉を話します。
事実である何かを話す時、直説法で話します。
真実にならなければならない何かを話したい時、命令法で話します。
真実である何か、事実である何か、現実である何か、現実になるであろう何かに関する2種類の態で話します。
福音が分かり始めると、特に若い人たちに、「これが新約聖書と福音を理解するためのシンプルかつ重要な原則です」と教えます。
新約聖書の中で福音が宣言される時は何時でも、福音は独自の文法を有しています。
そして、その文法は、命令形が土台の教えであり、イエスキリストにあって、祝福の内に神がなすことの直説法という形で、私たちの信仰へと到達します。
このことを最も明瞭に例証しているのが、ローマ人への手紙における組み立てです。
1章から11章は、あらゆる偉大な神の祝福の直説法(叙実)、すなわち、如何にキリストにあって、神が私たちを買い取られたのか、如何にキリストにあって、神は私たちを聖化させるのか、如何にキリストにあって、私たちを栄光化するのか、如何にキリストを通して、全歴史を壮大なる完成へと導くのか、如何に個々人に対するご計画だけではなく、国家に対するご計画が頂点に達するのかを説いています。
ここに、神の祝福の力ある叙述があります。
そして、その後に、パウロの「threreforeそれ故、従って、そんなわけで」が続きます。
若かった頃、私たちは次のように教わりました。
パウロの「therefore」と見たら、その意味は何かを自問しなさい。
その答えとはこうです。
これが、キリストにあって、神が私たちのためになさったことです。
それ故therefore、これがキリストとひとつになるということ。
山上の垂訓も、まされにこれと同じことであります。
主イエスが私たちを召し出したのは、舟の舵を自分たちで引っぱり、私たちの義がパリサイ人や律法学者よりも優れるように努めに励み、額に汗するためではありません。
神の贖いの豊満な祝福の中に、自分たちをどっぷりと漬け込むように主は奨励してくれています。
だから、山上の垂訓は、次から次へと繰り出されるこれらの契約の恵みで始まっているのです。
これらの契約の恵みの祝福の中に沈み込むと同時に、力ある命令形が次にやって来ます。
イエスキリストにある恵みの証拠とは、イエスキリストのように汝の敵でさえ愛し始めることです。
この理屈を自分の頭の中でひっくり返して、人は福音を破壊するのです。
私たちが背丈に達して従順になるから、神が慈悲深いのではありません。
背丈に達して従順となれるように、神は慈悲深いのです。
この箇所の教えに関して、これらの教えが真理であることを知るために、時間をかけてテキストを読み込んでいくことは大変重要です。
この箇所の教えに関して、主イエスは、私たちが、私が、あなたが、私たちの敵を愛することができるために十分足る神の恵みの力ある叙述を4つ提示します。
第1に、神のご性質、45節。
Mat 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもであるということ。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
イエスのことばに注目して下さい。
主は、まさに主イエスキリストです。
「あなたがたが御父の子どもであるということ。」
主は、「あなたがたが御父の子どもとなるために」とは言ってはいない。
主は特殊な例証を与えてくれます。
私たちの愛する父はあまりにも寛大であり、その一般恩恵は、神の国の境界を超えて拡がります。
神は、日々昇る太陽と日々降る雨を、義人にも悪人にも与えて下さいます。
神の寛容に基づいて、私たちは汝の敵を愛するように命ぜられています。
寛容なる神を信じますか、友よ。
あなたの隣人に対して、類まれなるほど慈悲深い神を信じますか。
天におられる御父としての神を。
彼らは、天の父として、創造主である父として、神を知りません。
しかし、神はあなたの父であり、あなたがたに寛容です。
福音には、大変イライラさせる教えがあります。
神が罪人に寛大でないなら、私もあなたも罪人に寛大になる必要はないという教え。
それはヨナの教えです。
彼が神に腹を立てたことを覚えているはずです。
4章で、彼は、「あなたは憐れみ深い神であるとは知っています。」
あなたが寛大なる神であることは知っています。
だから、私はあなたにいらいらしているのです。
ヨナは、ニネベの人たちにいらいらしていたのでなく、おもに神に対していらついていたのでした。
なぜなら、彼の心は、偉大なる神の寛大さによって溶解していなかったからです。
ここでイエスが言っていることに注目しましょう。
私たちの敵である者たちに対する私たちの反応、私たちに対して敵対心を表明する者たちに対する私たちの反応は、彼らが私の敵であるという事実に基づいているのではなく、神は私の父であるという事実に基づいているのです。
クリスチャンライフの秘訣は、どの方向を向いているかに依ります。
この世や自分の状況、神の摂理、人々における理解の仕方は、パウロが第2コリント5章で言っているように、肉に従っています。
私たちは、霊の目によって、天を見ています、そして、そこにおられる、寛大で、憐れみ深い天の父を見ています。
神は、罪人、不義なる者の上に、あなたを迫害する者の上にさえ太陽と雨を送ります。
私たちの天の父の心の何と寛大なことか。
敬虔であるということは、父に似た者となること、私たちの敵に寛容となることです。
つまり、その命令形は、神の寛大な心、父のご性質に基いています。
再度、44、45節。
Mat 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
Mat 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもであり続けられるように。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
山上の垂訓において、イエスが話しかけている人たちは、(神の)子どもたちです。
神の子どもに対して、子どもであれ、と主は言います。