☞ Sinclair Ferguson: Loving Your Enemies
14分08秒から24分24秒まで。
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それ故、イエスにあって病人を癒すために働くその力、足萎えを歩かせるために働くその力、目の見えない者に視力を与えるその力は、堕落した世に対して反文化的方法によって、弟子たちの生活を解放し、変貌させた力とまさに同じ力であります。
主イエスキリストの奇跡は、堕落した世において、主の王国の力を見せつけるのです。
堕落した世において、主イエスキリストの弟子たちは、王者の生活を見せつけるのです。
この箇所以外に明確に示されている箇所はありません。
イエスの弟子は敵を愛せよという、あらゆる文化的生活様式とは真逆なる主の命令。
イエスがこの教えを与える特殊な背景があり、それはマタイ5章17-20にある教えであります。
Mat 5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
Mat 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
Mat 5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
Mat 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
主が来られたのは、神の法を廃棄するためにではなく、成就するためにであるという教え。
御国の力は、シナイ山でモーゼに与えられた偉大な神の法において期待され、預言されていたすべての成就により明瞭に示されている。
主が深い関心を持っていたことについては、5章の最後21節以降に書かれています。
モーセを通して与えられた神の法を廃棄するのではなく、この大いなる原則を実証することが重要であると考えていました。
イエスの弟子たちは、神の法の成就の生ける具体例だったのです。
事実、強烈な方法で、神の法の内なる意味、内なる成就と、パリサイ人や律法学者に特徴的だった歪められた法を比較・対比しています。
何故か。
パリサイ人と律法学者は、古い契約の福音の中にある神の贖い、解放、変容の祝福を得ることができていなかったからです。
神の法に全き従順を続けるために必要な基盤を持っていなかったがゆえに、パリサイ人や律法学者は、神の法と契約を結び、それを守る必要がありました。
このようなことは、常に同時進行でなければなりません。
神の祝福と契約を結び、そして、神の命令と契約を結ぶ。
これが当時彼らが行なっていたことです。
彼らは、隣人愛に対する祝福の適応を狭小化していました。
全く違った意味で、旧約聖書は隣人を愛する奨励に満ちているにもかかわらずです。
隣人の動物が溝に嵌まっているのを見つけたら、面倒を見てあげなさい。
では、敵の動物が溝に嵌まっているのを見たらどうするのか。
敬虔的思いから、モーセは人々に言いました、「溝に嵌まっている敵の動物の面倒をみなさい。そうすれば、あなたの人生を特徴づける生活様式において、神の贖罪の愛の力を実証することになります」と。
後に使徒パウロがローマ書8章3節と4節において宣言した同じ原則を、主イエスは私たちに宣べています。
Rom 8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
Rom 8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の義が成就されるためなのです。
肉によって弱くなっったがゆえに、剥き出しの律法ができなくなったので律法学者は肉によって神の法を弱体化しました。
律法が無力化したのは、私たちの肉によって弱体化されたからです。
そこで、神がなさったことは、御子を肉の罪の似姿において罪のために世に送り出すことでした。
律法の義の要求が私たちの内で成就するために、神は肉において罪を処罰しました。
誰ひとり肉によって歩まず、神の霊の力によって歩むためです。
主イエスが力強い教えを与えた状況は以上です。
第2に、主イエスが与えた処方箋に注目して頂きたいと思います。
その力を感じる必要があります。
43節
自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛しなさい。
律法学者は、レビ記19:18を受け入れていました。
Lev 19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。
旧約聖書における呪いのことばにようにおぼろげな方法で、彼らはこのことばを受け入れていました。
しかし、そのことばは、人生の処方せんとして与えれたものではなく、特殊な状況における反応例として与えられたのです。
法に反しつつ、彼らはこれらのことを握りしめ、生きる規範としました。
「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」と。
彼らがあなたの小さな王国の外にいるのなら、異邦の犬として彼らを軽蔑しなさい。
ヨナがしたことをしています。
教えの中でイエスが指し示していることは、旧約聖書の教えを彼らが誤解しているだけではありません。
旧約聖書の教えは、「隣人を愛し、面倒をみることを奨励するのみならず、隣人が敵だった場合にも愛し、面倒を見よ」という勧めであると主は繰り返し告げます。
箴言24章17節にこうあります。
神の契約の法を、個々の信徒の実践的生き方に応用する。
「Pro 24:17 あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。」
何故か。
なぜなら、神の法において、汝の敵の面倒をみるように神が命じているからです。
福音後半において、イエスは、その原則を例証しています。
イエスのことばを聞いた人々の怒りに対して、イエスは良きサマリア人の例えを話します。
サマリア人は切羽詰まった状況にある敵を見つけ、彼を愛します。
しかし、ある意味において、この箇所におけるイエスの基本的教えは、良きサマリア人の例えよりもはるか遠くを行っているように見えます。
自分の敵が失望し無防備であった時、良きサマリア人はその敵の面倒を見ます。
イエスは弟子たちに強く力説します。
「汝の敵があなたたちに敵対行為を実行する時、彼らがあなたがたを迫害する時、彼らの面倒を見なさい。」
マタイ5章の前半、「彼らがあなたがたを憎む時、彼らがあなたがたにあらゆる悪を行なう時、彼らの世話をしなさい。」
もちろん、あなたがたに対するあらゆる悪を不正に行う場合であっても。
あなたがたの敵が弱り果て、無防備になり、憐れみがあなたがたの心から溢れる時だけでなく、あなたがたの敵があなたがたを迫害する時も、とイエスは言います。
真に新生している霊から、汝の敵への愛の油が流れ始めます。
主イエスキリストに委ねられた人々の命の中に、福音の力が証明され、そして立証されるために。
しかし、イエスが与える処方箋に関して本当に恵み深いことは、主がご自身の教えを実践したということです。
主イエスの教えを愛することのできる理由は、まさにこのことではないでしょうか。
さらに言えば、これとまさに同じこと宣べを伝える宣教師をあなたが愛することのできる理由も同じではないでしょうか。
宣べ伝える原則を自ら実践する人たち。
主イエスキリストが十字架に付けられて、最後の3時間の間に放った力強い7つのことば「父よ、父よ、彼らをお赦し下さい。」
敵に囲まれたダビデが詩篇22編で次のように語ります。
憐れみの心をもって、彼は叫びます、「父よ、彼らをお赦し下さい。」
イエスがこの原則を教える一般的な状況があります。
汝の敵を愛するための特別な処方箋があります。
第3に、私たちが主の教えに従うことができるための動機があります。
ちょっと時間を取ります。
いらっとしないことを切に望みますが、英文法の勉強をしましょう。
私はイングリッシュ(英国の)という言葉が好きではありません。
私はスコットランド人で、イギリス人ではありません。