みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#75 基礎教理 Loving Your Enemies, NO.1

2024年08月12日 | 創世記

Sinclair Ferguson: Loving Your Enemies


最初から14分08秒まで。

◇◇

救いの達成のために原点に戻る。

これを実行するかしないかは真のクリスチャンであるかどうかの分かれ道と解く。

主は、背教者、偽預言者、迫害する者、グ●ーバ●スト、カ●リック、国家を愛せよと命ずる。

祈ることすら躊躇するのに愛せよとは。

◇◇

マタイ福音書を開いて下さい。

マタイ福音書の数か所に渡って、読んでいきたいと思います。

4章の終わり、23節から始めて、5章節の数か所をお読みします。

Mat 4:23  イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。 
Mat 4:24  イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。 
Mat 4:25  こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。 
Mat 5:1  この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。 
Mat 5:2  そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。 

飛んで、10節。

Mat 5:10  義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 
Mat 5:11  わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 
Mat 5:12  喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。 
Mat 5:13  あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。 
Mat 5:14  あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 

そして、17節。

Mat 5:17  わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 
Mat 5:18  まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 
Mat 5:19  だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 
Mat 5:20  まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。 

そして、43節。

Mat 5:43  『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 
Mat 5:44  しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 
Mat 5:45  それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 
Mat 5:46  自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 
Mat 5:47  また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 
Mat 5:48  だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 

ご一緒にお祈りください。

今この時、神のご加護を求めます。みことばによって、ともに神の御顔を求めます。
恵みあふれる私たちの神、御父よ。
今日命と息吹きをあなたが与えて下さったことに、心の底から賛美します。
あなたの聖なるみことばを学ぶことのできる心を与えて下さったことに、心の底から賛美します。
聖霊によって、私たちの霊を新たにして下さったことに、心の底から賛美します。
私たちの命、心、意志、良心、御前にあるすべてのものを下げます。
あなたの聖なるみことばを通して、私たちの主イエスキリストご自身が、私たちの教師となり、預言者となり、王となれれますように。
御前に跪きます。
閣下とともに、この部屋を満たす栄光とともに、皆でお祈りします。
主イエスキリストの言葉づかいを聞くことのできる力を与えて下さい。
主の偉大なる御名によって、皆とともにお祈りします。
アーメン。

自分の十字架を取って、主イエスキリストに従うということ。

主の弟子となるということは、この世とは異なる生活習慣へと召し出されていることを意味します。

それは、一言で言うと、超自然的であり、神的であるということに尽きます。

自分の十字架を取り、主の弟子としてイエスキリストに従うということは、この世とは異なる生活習慣へと召し出されていることを意味するが故に、超自然的であり、神的であるということ以外に可能な答えはありません。

そんなわけで、マタイ5章にある主イエスの命令は、本物のクリスチャン弟子訓練にとって、極めて劇的です。

「汝の敵を愛せよ」という今朝のみことばにおいて、主イエスキリストは、同時に二つのことを行なわおうとされます。

最初に、主は真のクリスチャンと偽のクリスチャンの違いを明らかにします。

今の世の中ができることは、自分を愛することを教えるだけです。

今日の宗教ができることは、隣人を愛するように勧めるだけです。

しかし、福音の力を引き出し、イエスキリストの主権を際立たせるために、主は汝の敵を愛せよと命じているのです。

この世や宗教界とは全く異なることをせよという命令は、神性であり、超自然的なことばによってしか説明できません。

真のクリスチャンと偽のクリスチャンとの間の対比を暴露するイエスの言動は、私たちに向けられています。

何故なら、語られている通り、それは、私たちのために明示されていて、福音を開く鍵を明らかにしてくれるからです。

福音を開く鍵とは、まさに神ご自身がなさったことであります。

使徒パウロが唱えたことがそれです。

「キリストにあって、神はご自身の敵と和解された」と。

2Co 5:18  これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 

ここに神の愛があります。

「私たちがまだ罪人だった時、キリストは自身の敵のために死んでくださった。」

Rom 5:8  しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 

このことを理解することは大変重要であります。

わが友よ。

福音の神髄を理解する、神ご自身の御心を理解するためには、イエスのこの教えを理解することに尽きると言ってもいいでしょう。

この命令「汝の敵を愛せよ」という主イエスの命令を成し遂げるために、この世において唯一考えうる権威である福音を、そして福音を与えて下さった神をしっかりと理解する必要があります。

罪人に対する神の愛を認めるのであれば、当然私たちは主イエスキリストの命令をも承認することになります。

この命令を身をよじることなく承認するのであれば、当然私たちはまず第一に自分自身を、次いで他人も承認することになるのです。

これが主イエスキリストの無制限の愛です。

イエスが命するような命令には本来の意義があります。

特殊な意味において、この命令は、福音の理解という点において、福音に服するという点において、ある考えられうる欠落があることを顕かにします。

この命令を聞いて、主に「はい、しかし、この状態は一体何なのでしょうか」と言いたくなる衝動に駆られないでしょうか。

「はい、主よ。しかし、この状況は一体何なのでしょうか」と。

「はい、主よ。しかし、この人たちは一体どうなのでしょうか」と。

そういうことをしているうちは、わが友よ、あなたはこの命令の背後にある福音をあまり重要視していないと受け止められてしまいます。

これらのみことばが、主イエスの偉大なる命令を明らかにするだけでなく、福音における神の慈悲に対する心の反応を明らかにしてくれます。

再び山上の垂訓を読む時、「神は何と慈悲深いお方か。神は罪人である私を愛してくれている」と叫びながら、初めて主イエスキリストを求めた地点へと私たちを誘ってくれます。

4つの見出しをつけて、ご一緒にこれらのことを見ていきたいを思います。

第1に、主イエスがこの教えを与えた状況を考えたいと思います。

第2に、この教えに刻まれている規定について。

第3に、この教えに従順であるために、主が与えたもう動悸について。

最後に、この教えの実践において、主が助けて下さる方法について。

最初に、この命令が与えられた状況についてお話ししましょう。

その状況は、実は2重の意味があります。

主イエスは宣べている状況には2重の内容があります。

一般的な意味合いは、マタイ4章の最後から5章の始めに見出すことができます。

主イエスは、ご自身そのものであられる神の国の到来と存在を宣べ伝えていた。

その到来とともに、そこから放出される新しい力がある。

主が宣べ伝える力だけではなく、4章の終わりに書いてあるように主イエスが卓越した奇跡を成し遂げることができた力。

御国に関するその教えは、自ずからの宣教によって放出される御国の力を、主は見える形で実証されたのです。

そして、御国の力が堕落した被造物に回復をもたらす方法を示して下さいました。

ある日、最後の回復が起こり、王としてイエスキリストが御国を先導する御国の良き知らせが与えられています。

主イエスキリストがなす万能の力において、まるで、目に見えるミニチュアの模造体のように。

そして、天の御国の具現として、主はやって来られます。

主ご自身がその国の王。

天使たち、ケルビム、セラフィムは主の御前でひれ伏します。

謙遜し、受肉してやって来られ、ご自身の王権を現わします。

山上の垂訓、マタイ5章から7章で弟子たちに教えているように、主は、肉体の超自然的、奇跡的変容の力を目に見える形でお示しになりました。

しかし、それだけではなく、弟子たちの生活習慣が変容するという点においても、御国が劇的にかつ永続的に実在することを主は証明されました。

それ故、山上の垂訓全体は、イエスが成したすべての奇跡のように、天の御国の生活形態、そして、神の国に属する人たちの国民性を、この世に目に見える形で指し示めすことが意図されているのです。