勿忘草 ( わすれなぐさ )

「一生感動一生青春」相田みつをさんのことばを生きる証として・・・

花の宴

2009-03-31 23:20:51 | Weblog
 「花の色はうつりにけりないたづらに・・・」と、時の流れの早さと、我が身の老いを嘆いたのは小野小町。
 「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」と詠った紀友則は、春の光の中で、咲き始めた花とあわただしく散る花に、浮世の儚さを嘆く。

 少しばかり寒さが緩んだとはいえ、花曇りの冷たい風にもめげず、産声をあげたばかりの墨田公園の桜の下では、花の宴が繰り広げられていた。

 江戸の昔、吉原通いの通路としても栄えた山谷掘は、今は埋め立てられて山谷掘公園となり、台東区の桜の名所のひとつとして、憩いの場所になっている。

既に八分咲きの山谷掘公園の桜も、花冷えに震えているようだった。

ガラスのうさぎ

2009-03-30 13:59:49 | Weblog
 佐伯眼科での入院当日、看護師さんに病室へ案内された。部屋に入るとまず同室の患者さんに自己紹介と挨拶を済ませる。
その後、看護師さんから一通りの説明を受け、荷物を収めてから壁に向かい着替えをした。

 同室の皆さんの談笑に加わると、元タクシー運転手という、同年代の方から聞かれた。
「お客様商売ですか?」
「そう見えますか?」
と答えたものの、見事に言い当てられたことに驚く。
さすが、タクシーで鍛えられた眼力に脱帽。
着替えの時の態度にもそれが表れていたと聞き、そういうものかと2度びっくり。
調子のよさばかり目立ったのか?
その後は、うちとけて話に花が咲く。

 地元小田原で、観光タクシーもしていたという彼が教えてくれたひとつ、二宮駅前のガラスのうさぎの像を途中下車して見てきた。
 戦争末期の1945年の東京大空襲で、母と妹を奪われた十二歳の少女敏子が抱くガラスのうさぎの像は悲しげだ。

 東京の下町でガラス工場を営んでいた父親が作ってくれたガラス細工のうさぎが、空襲によって変形して残っていたが、その父も疎開途中の二宮駅で機銃掃射に遭い、彼女の目の前で命を落す。
 「平和と友情よ永遠に」の願いを込めたこの話は、ドラマや映画化もされ、ご存知の方も多いかと思うが、こちらでその概要を知ることができます。

後発白内障

2009-03-28 23:35:35 | Weblog
 ほころびかけた桜の花も戸惑うほどの真冬のような冷たい風の中、眠い眼を見開きながら、旅行気分で出かけた退院後2度目の佐伯眼科の外来診察は、後発白内障という診断。
右眼に比べて、左眼の微かなかすみ具合があったものの、快復の過程と思っていた。
 後発白内障は、水晶体の袋に術後に濁りが生ずることが原因で発生するという。
この症状は、顕微鏡的には白内障手術を受けた人全員に見られ、何割かの人は術後数週間から数年で、視力に影響が出るほどに進行するらしい。
名医でもこれは防げないようだ。

 「レーザーで濁りを飛ばせば、またよく見えるようになります」という院長の言葉で、待つこと数分、機器の前に座って両眼の濁りを取り除いた。
治療時間も僅かで痛みもなく、帰途につく時は、濁りが消えた眼と、瞳孔を開く目薬のため、花の向こうの小田原の街が眩しかった。

 後発白内障について関心のある方はこちらをご覧ください。

ピッカピッカの・・・

2009-03-27 22:46:59 | Weblog
 ピッカピカの希望に燃えていたかどうかは忘れたが、桜の花の下、胸を躍らせながら母の手に引かれて行った小学校の入学式。
あれから60年に近い歳月が流れた。あの日のことは微かに覚えている。
 その母がこの世を去って16年。
病院で僕の到着を待つかのようにして息を引き取った母。
「おかあさん、ゆうじだよ」と声をかけたそのとき、母の目から一筋の涙が流れた。

 葬儀のための洋服を着替えに部屋に戻ったとき、突然大きな悲しみに襲われて、ベッドに身を投げ出して号泣したのが昨日のように思い出される。
 ドイツでは死後も、100歳、120歳、150歳など「節目」の誕生日を祝う習慣があると聞いた。
母が生きていれば、今年の5月には100歳の誕生日になるはずだ。

母親の涙には
化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている
byファラデー

 母の命日は5月15日、誕生日は5月30日。
息を引き取る数日前の、母の日に持って行った花を見て「みんなの性格が表れている」と言って、それぞれが贈った花を喜んでいたっけ。

花冷え

2009-03-26 22:36:42 | Weblog
 ソメイヨシノの発祥の地といわれる染井霊園は、巣鴨地蔵通りからほど近い場所にあり、 園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、桜の名所としても親しまれている。 

桜守の佐野藤右衛門さんの話によると、全国の桜の80%が、ソメイヨシノだそうだ。
 
桜の開花宣言が出されたばかりの東京は、花冷えが続き、早朝には雪が舞ったという。
 
青空を背に微笑みかけた桜の花も、早すぎた開花に戸惑っているかのよう。
  
 染井霊園に隣接する巣鴨平和霊苑の飛天塚は、永代供養の墓地で、僕もここに眠ることになっている。
お彼岸に来られなかった墓参りは、少しだけこころに風が冷たかった。

口コミ

2009-03-25 23:44:19 | Weblog
くちコミとは、くちコミュニケーションの略だとか。
仕事場でお客様に声をかけられた。
「ブログで佐伯眼科の記事を見ました」
「ありがとうございます」
「この人、眼が悪いんです」
連れの男性を指して言った。

その方は眼底出血で、病院に通っているが、両眼が見えにくいという。
佐伯眼科のことを聞かれた。

佐伯眼科の院長は、日本屈指の名医であること。
白内障だけでなく、あらゆる眼の疾患を診てくれること。
紹介状がなくても外来でどなたでも受け付けてくれること。
手術はすべて院長が執刀してくださること。
医療費も決して高いわけではなく、一般的な料金であること。
などをお伝えした。

 早速、来週にも診察を受けに行くと言う。
ブログの影響にもおどろかされたが、良い結果がでるとうれしい。
 

眼は心の窓

2009-03-24 22:23:36 | Weblog
 「眼は心の鏡」とも「眼は心の窓」ともいわれる。手術でよく見えるようになった眼は、春の光が眩しい。
 高校を卒業する頃から掛けはじめた眼鏡とは、半世紀近い付き合いである。
常時使用している遠近両用眼鏡は軽さを重視した。
金縁眼鏡は勝負眼鏡。
流行の黒縁眼鏡はパソコン用。
新聞や辞書などの小さな文字は、眼鏡の上からかけられ、虫眼鏡の役目もする眼鏡。
そしてサングラスも度が入っているものもある。

 困ったことに、それらの眼鏡の度が合わなくなってしまった。
視力が安定するのは半年ぐらいかかるという。

 よく見えるようになったとはいえ、やはり眼鏡をかけないと落ち着かない。
とりあえずPCは眼鏡をかけないで見えるようになったが、明る過ぎて長い時間は眼が痛くなる。
しばらくは、PCとは短時間の付き合いになりそうだ。

東京マラソン

2009-03-22 23:59:36 | Weblog
 22日の東京地方は、曇り、時々晴れ、のち雨、ところにより突風、一日中マラソンだった。
車椅子マラソンのランナーがスピードに乗って通り過ぎていく。
 
彼らの中には42.195キロを1時間20分台で走る選手もいるという。
 
 車椅子ランナーが走り去ると、次々と現れる男性ランナーの中に、土佐礼子選手(前から2番目)の姿があった。

続いて現れたのは、この大会で引退表明をした弘山晴美選手。
 
その後は続々と一般の市民ランナーが、浅草の街を走り抜けていく。
 
 35、000人のランナーがそれぞれの思いを胸に、東京の街にその足跡と想い出を刻んで、ゴールを目指す姿は美しかった。

目薬

2009-03-21 23:59:29 | Weblog
 毎日さす目薬は5種類ある。左眼だけが3種類、両目が2種類、それぞれが1日3回であったり、朝夕の2回であったり、寝る前であったりややこしい。
 退院して一週間が経ち、初の検診に行った。
「順調に快復しています」の言葉に安心する。
左眼は術後の眼圧が34に上がり、正常値の10~20mmHgをはるかに超え、眼圧を下げる目薬もさしていた。
その眼圧も徐々に下がり、今日の検診では左右共に12と正常値になり、目薬がひとつ減った。

 入院時の一週間は風呂にも入れず、洗髪、洗顔も禁止されていた。
退院後の入浴は許されたが、未だに洗髪、洗顔は禁止である。
洗髪の禁止は僕にはあまり影響ないが、歯磨きの後無意識に洗顔したくなる。
 眩しいほどよく見えるようになった眼に、小田原という地がいとおしく感じるようになった。片道2時間以上かけて行く病院も苦痛ではなく、むしろ楽しみでもある。

彼岸

2009-03-20 21:56:46 | Weblog
 夜来の雨もやみ、うららかな春の陽射しの中、お墓参りに実家に行った。兄弟姉妹が集まる数少ない機会である。
 甥の息子の成長ぶりも楽しみだが、今日は知らない子がいる。
エッ!この子は誰?
Vサインでニッコリ笑った笑顔は、春の野に突然顔を出したつくしのぼうやのよう。
 僕には二人の弟がいるが、その末弟の孫だという。
バツイチの弟の娘が国際結婚していたらしい。なんと僕の知らぬ間に、外国人の親戚ができていたわけだ。
アメリカ人の彼はしっかりした日本語を話し、箸も上手に使いこなす。
幼かった甥の息子は、急におにいちゃんのような振る舞いで、つくしのぼうやとすぐに仲良しになっていた。
 墓の中で眠っている父と母、そして兄もさぞかし驚いていることだろう。
暑さ寒さも彼岸までという。春の彼岸のサプライズは、こころまで暖かくしてくれた。

藍より青く

2009-03-19 22:01:23 | Weblog
 朝眼が覚めて居間に行く。カーテンの隙間から射し込む春の陽光が眩しい。その光は眼に痛いほどだ。

智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
 
 今まで僕が見ていた空は灰色に近かった。今見る空の色は藍より青く、飛行機雲は雪よりも白い。

 緑は萌え、白い花は雪のよう。空の色も、雲の色も、花の色も、こんなに鮮やかだったのか。

 入院二日目、右眼の手術が終って眼帯をしていた。手術をしていない左眼だけで食事をした。
食事膳にはとろろ芋も乗っていた。半分になったご飯の上にとろろを掛けた。
食べてみて驚いた。それはデザートのヨーグルトだったのだ。同室の仲間は大笑い。

 デザートにヨーグルトは毎日のように付いていた。眼帯が外れた眼で見たヨーグルトは、とろろ芋とは違い真っ白だった。

 白内障の手術で知った空の青さもさることながら、白い色がこんなにも白いことに毎日衝撃を受けている。 
今まで見ていた白は、生成りの色だった。今見る白は、青みがかった蛍光色に見える。
白が輝いている。眼は大切にしよう♪

こころ

2009-03-17 23:31:50 | Weblog
 一週間の入院で心配していたベランダの植木は、しおれずに元気に育っていた。
入院前は、早めに咲きはじめた雪柳と、花期も終わりに近い椿の花が数輪咲いているだけだった。
 一週間ぶりに帰宅してみると、ベランダの隅では、あまり手入れもせず放っておいた君子蘭が、いじけて咲いていた。

 鉢の中から控えめに顔を出した都忘れは、僕のことを覚えていてくれたのだろうか。
  
◇ こころ ◇

おぼえておきたいことは
忘れてしまい
忘れてしまいたいことは
けっして忘れられず

にくらしいいけれど
わたしのこころ

-星野富弘さん

 そして、何よりも気になっていたのが、出かけるときには蕾を持っていた、コスモスさんからいただいた黄花節分草。
雪柳の陰で僕の帰りを待っていたかのように、可憐な顔を持ち上げて一輪咲き出した。

 忘れられた火の色の花君子蘭も、うすむらさきの小さな花都忘れも、僕の帰りを待ちわびた黄花節分草も、春の訪れを忘れない。
僕は昨日のことも忘れるというのに。。。

丘の上の眼日記・最終章

2009-03-16 22:26:51 | Weblog
 緑に囲まれた小高い丘の上の美しい建物が、今回お世話になった佐伯眼科クリニックである。
 眼疾患治療の第一人者として知られる、佐伯宏三院長を頼って来る患者の中には、多くの著名人や、他の病院では治らないといわれ、最後の砦として訪れる眼疾患患者があとを絶たない。
診察室には、大使館から来たという、外国の人が、通訳を連れて来ていた。
 病院の入り口にある定礎板には、ここへの入院時にライブ中継されたこともあるという、永六輔さんの言葉が刻まれている。
 眼の形をした楕円形の建物はガラス張りで、3階は一周がすべて病室の窓である。
病室は全部で10室、4人部屋が3部屋と、特別室を含む個室が7部屋。ベッド数は19床の落ち着いたフロアである。
 その中心には、一階から続く階段とエレベーターがあり、ゆったりとした螺旋階段も眼の形をし、まつ毛まである。
そこは病院のイメージとはほど遠い。


退院したばかりの73歳の男性の話
斜視だったが、別の眼の病気で入院、手術をしたという
術後の診察で、院長先生に恐る恐る尋ねた
「先生、ちょっと話していいですか?」
と切り出し
「こっちの眼では正面のライトが見えないんです」
すると、院長先生
「簡単だよ、グイッ!だよ」
そう言って、自転車のハンドルでも直すような仕草をしたという
「明日手術しよう」
そして次の日、見事に正面を向いた眼を喜んだその患者さん
「俺の70年はなんだったんだろう。。。」
 
 数々のエピソードは、数え上げたらきりがない。
しかし、入院費も手術の費用も、決して高価なものではなく、他の病院と比較する術はないが、庶民の僕にとっても充分納得のゆくものであった。
 2階の部分のガラスに写る青空が、こんなに青く美しく眼に映え「一生感動一生青春」を実感した。(ガラスの右隅に、カメラマンも写っています)

丘の上の眼日記・その8

2009-03-15 21:17:13 | Weblog
 退院の朝を迎えた。
 午前6時前には目覚め、病室のカーテンからそっと覗くと、窓の外の白みかけた空は、日本晴れ。
抜けるような青空にゆっくりと昇る朝日が、新しい門出を祝福してくれているかのようだ。

 眼帯を外したときは、曇りガラスのように何も見えない真っ白な世界だった左目は、右目の快復を追い越してしまったかと思うほど。
 手術後のふたつの目で見る丘の上からの景観は鮮明で、総天然色からハイビジョンの世界に変わった。
院長が自信を持って言った「すぐに見えるようになります」の言葉は、嘘ではなかったのだ。
 陽が昇り、佐伯眼科クリニックを暖かな春の陽射しが包む頃、どこからか鶯の鳴き声が聞こえてきた。
受付でそのことを伝えると、今年の初鳴きだわ、と言って微笑んだ。

 快適な入院生活に別れを告げて帰った見慣れた東京は、今までとは全く違う世界に見える。その明るさ、色、何もかもが色鮮やかで眩しい。

 「人生観が変わる」と、入院中に誰かが言ったとき、「見る世界は変わるかも知れないが、人生観まで変わるとは思わない」、と豪語した僕だが、これは人生観が変わってもおかしくないと思えた。
 佐伯院長の言葉、“手術が終ってよく見えるようになったとき、真っ先に緑豊かなこの景色を見て、新たな希望と勇気を持って再出発して欲しい”がうなずける。

丘の上の眼日記・その7

2009-03-14 21:42:00 | Weblog
 術後見えにくかった左眼は、時間の経過と共に急速に快復し、僅かに眼の中に浮遊物があるものの、右眼とほとんど変わらないまでに快復した。
手術前はセピア色だった窓の外の景色も、今日は右眼の時のあの感動の色と変わらない。

 院長の診察によると、「眼の中のタンパク質も無くなりつつあり、視力は更に快復し、もっと良く見えるようになりますよ」とのこと。
白内障の手術は、視力が落ち着くまでには3ヶ月~半年はかかるという。

 午前中の、嵐のような雨風も、午後には嘘のように晴れ上がり、今の僕の心のよう。。。

 明日は退院の許可も出て、一週間の入院生活にも終止符が打たれる。

 冗談を言い合い、楽しい日々を過ごして笑い合った部屋の仲間とも、ワイドに広がる窓の景色ともお別れである。

 その一人は、「この人はカメラを持って観光に来ているんたからぁ」と言って、娘のように歳の離れた美しい奥様に紹介してくれた。
この浮世離れした、ホテルのような病室での数日間の貴重な体験は、夢のようでもあった。

 明日から再び始まる現実の世界は、よく見えるようになったこの両目で見ると、違う世界に見えるかも知れない。