勿忘草 ( わすれなぐさ )

「一生感動一生青春」相田みつをさんのことばを生きる証として・・・

大当たり~

2005-09-30 23:11:09 | Weblog
 いつものスーパーに買い物に行った。あの《さつまっ子》が山に積まれていた。買わないぞ~。
いつものようにレジでポイントカードを出した。レジを通さずに返ってきた。あれ!今日はカードの使えない日なのかな?

 袋を提げて出口に行くと、「千円で一回引けます」と声を掛けられた。
福引をやっていたのか、あれレシート何処かな・・・? 
袋の中にあった。
「3回引けます」
「あっそう」
勢いよくハンドルを回した。
赤い玉が受け皿を飛び越えて飛んでいった。
係りの人が走って取りに行った。
二度目は手加減したのでうまく皿に入った。
赤い玉だ、それがなんだかわからないが、係りの人の反応もない。
次に出てきたのが、金の玉。
「おめでとうございます」と言って、大きなハンドベルを鳴らした。
「カラ~ン・カラ~ン」
「一等です」
「えっ、ハワイ旅行?」

 張り出してある紙には、一等700円 とあった。な~んだ。
でも一等か。
赤い玉は多分外れで10円。
720円分の金券を貰って帰ってきた。

それでも何か得した気分。月末だもの。
2005.09.30

彼岸花

2005-09-29 20:40:16 | Weblog
       
 この美しくも妖しげな花、「彼岸花」「曼珠沙華」のほかにも、「シビトバナ」「トウロウバナ」「カミソリバナ」「ステゴバナ」「ハミズハナミズ」「ノタイマツ」「カエンソウ」などその名は1,000以上あるという。

 子どもの頃、墓地に咲きその血の様な赤い色から、どこか怖ろしげな花と思っていた。
しかし地面から力強く伸びる茎の先に真っ赤に咲くその花の美しさ、形の良さは、怖ろしさよりも、妖しげな魅力に溢れていることに気がついた。

 葉のない花と思っていたが、花が終わった冬の初め頃、線状の葉を出し光合成をして養分を球根に蓄え、葉は翌年の春枯れる。そして夏から秋にかけ再び芽を出して、この時期に美しい花を咲かせるのだそうだ。

        
       
        
        
       
 友の命日の昨日訪れた墓地にも、あちらこちらにこの花が妖艶に咲いていて、先日訪れた向島百花園とはまた別の趣を醸しだしていました。(画像大きくなります)
2005.09.29

忘れな草

2005-09-27 23:50:47 | Weblog
        
 
 花には美しい名前がたくさんある。
《月見草》《宵待草》《誰故草(たれゆえそう)》などはロマンチックで夢がある。《一人静》《二人静》というような楚々とした名前の花もあるが、三人では静かではなく、姦しいになってしまうのだろうか。そして好きな花の一つ《都忘れ》や《物忘れ》(あっ、これは僕のこと)

 我がブログのタイトルでもある《勿忘草》も名前に魅かれ、また花言葉にも由来して付けてみました。

《勿忘草》にはこんな伝説がある。
 『恋人のために水辺に咲くこの花を採ろうとした青年が、川に落ちて流された。 彼は流されながらも恋人にその花を投げ「私を忘れないで」と叫んで沈んでいった。 恋人は生涯この花を髪に挿して暮らしたという。青年の最後の言葉がその花の名前となった』 
花言葉は「真実の愛」「私を忘れないで」


 この花言葉のように、心の片隅にほんの少しでいい 記憶として残していただけたらうれしい という気持ちを込めてブログの名にしました。
     
 写真の花は、先日訪れた向島百花園の入り口の片隅の目立たない場所に咲いていた《忘れな草》です。
季語は春ですが、何故今頃咲いていたのでしょう。

 目立たない場所にひっそりと咲くこんな花が僕は好きです。
2005.09.27

髪は命?

2005-09-26 23:19:22 | Weblog
 昨日に続いて髪の話です。 
「髪は女の命」といいます。金髪の大銀杏も見てみたいが、《緑の黒髪》《髪はからすの濡れ羽色》などと形容されるように、東洋人の髪はその黒さゆえ神秘的でもあるようです。

 男にとっても髪を命と思っている人も多いようで、日々薄くなっていく髪を眺めては溜息をついている御仁も多いと聞く。
以前、「一つ取って一つ捨てる」というお話をしたことがある。
ある年令を過ぎると、一つ歳をとるごとに何かを一つ失っていくという意味だが、これは自然の摂理でもあり、歳とともに髪が薄くなっていくのは当たり前。だから僕は平気。

 昔、他人(ひと)のかつらを異常に気にする先輩がいた。僕に、ある仲間のことを彼はかつらだとよく言っていた。その彼はいつも無造作な髪型をしていて、僕はかつらだとは思っていなかった。
或る日かつらといわれた彼と、その先輩と、僕の3人でお茶を飲んでいた。
かつらではないと信じている僕は、いい機会だと思って、彼に聞いた。
「ねぇ~、かつらじゃないよね?」 
すると彼は「えへへ」と笑ったきり何も言わない。
「ごめん!」そう言ったけれどもう遅い。
先輩はニヤ~ッと笑って行ってしまった。
まだ半信半疑の僕は、よせばいいのにもう一度彼に念を押した。
「かつらじゃないでしょ」
答えはまた「えへへ」

 なんて思いやりのない会話。
慌てた僕は「かつらだからといって人間の価値が変るわけじゃないものね」
それは僕の本音でもあるのだが、そう言っても虚しいだけ。

 それ以来、その先輩はかつらの人を見ると僕に言った。「かつらかどうか聞いて来いよ」
かつらの彼は、何年か後に訳あって、自ら命を絶った。
先輩は言う「お前のせいだ」と。

 日毎薄くなっていく我が髪だが、僕はかつらを着けるつもりなど毛頭ない。薄くなった髪を隠そうとも思わない。
人はそれぞれで、事情があってかつらを着けている人もいる。その人に異議を言うつもりなど決してないが・・・。

 もし仕事上かつらを着けなければならなくなったとしたら、帰るときには、かつらを外して、職場のみんなに「お疲れ様」と言って帰りたい。
2005.09.26

大銀杏も紅葉?

2005-09-25 23:45:47 | Weblog
 大相撲の千秋楽は外国勢の優勝決定戦で、今場所も朝青龍の優勝で幕が閉じた。
国技の大相撲も国際色豊かになり、今場所を盛り上げたのも外国勢。そのことに何の異論もない。
大リーグで日本の選手が活躍するのを見るのは楽しい。同じ様に日本の国技に外国人が活躍するのも時代なのだろう。
日本人力士に活躍して欲しいとは思うが・・・。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

《朝日新聞・朝刊の「天声人語」から抜粋》 

 今日が千秋楽の大相撲では、関取の髪を黒く染めさせるかどうかが話題になった。バルト海に面した東欧の小国エストニア出身の把瑠都(ばると)である。生まれつきの金髪だが、入門からわずか8場所で関取に昇進し、その鮮やかな髪に改めて角界の目が集まった。

 関取になれば大銀杏を結うのが決まりだが、これまで金髪の大銀杏など見たことがない。今場所をわかせた琴欧州はブルガリアの生まれだが、髪は黒に近い。朝青龍らモンゴル勢や、曙らハワイ出身者にも金髪の関取はいなかった。

 「大銀杏は目立つからやはり黒く染めたほうが」という声が一部で伝えられた。だが日本相撲協会では「自然な色のままでよい」という意見が優勢のようだ。「生まれつきの髪がいい」と本人にも染める考えはないらしい。

 そういえば、秋を彩るイチョウの葉はもともと輝くような黄金色である。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆


 この記事を読んで思うのだが、髪の色をとやかく言うのなら、最初から入門させなければいい。その点では相撲協会の意見は妥当だと思う。
国際色豊かな関取がいるのだから、大銀杏の色も豊かになればそれはそれで面白いと思う。

 髪の色をとやかく言うのは、肌の色で差別をするのと同じではないのか。
ある運送会社の若手社員が髪を黄色く染めたことで解雇され、裁判で会社側が敗れたそうだ。

 髪の色や形でその人を判断するのはおかしい。茶色の髪も、縮れた髪も、生まれつきの人もいるだろうし、その人の好みの問題でもある。

 とかく外見だけで判断しがちですが、それも個性のうち、個性のない人間は面白くもない。問題は中身だと思うのですが、皆さんはどう思いますか?
若い人の茶髪やピアスを羨ましくさえ思う僕です。

間もなく銀杏が黄金色にいろづく季節がやって来る。
2005.09.25

     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆

《訂正があります》
 先日の『ジェットストリーム』の記事で、「この番組今はない」とお伝えしましたが、調べてみたらTOKYO-FMで今もやっていました。ナレーションの城 達也氏は数年前に亡くなって今は違う人がやっているようです。
大変失礼しました。
 

秋の七草

2005-09-23 14:20:09 | Weblog
 「七」という数字には何か不思議な魅力でもあるのだろうか?
何かをまとめて表わすのにも都合がよく、語呂のよさもあってか、「七」を使った言葉はたくさんある。

七光り 七転び八起き 七転八倒 七変化 七福神 七つ道具 なくて七癖 七不思議 虹は七色 曜日は七日 七里ヶ浜に七曲

 春の七草、秋の七草。数え上げたらきりがない。
春の七草が《食》にこだわるならば、秋の七草は《花》を愛でることに主眼を置いているようです。

 「秋の野に 咲きたる花を指(および)折り かきかぞふれば 七草の花」
 「萩が花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花」


万葉の歌人・山上憶良の歌に歌われ、良く知られている秋の七草です。

 朝顔の花とは桔梗のことという説が有力だそうです。
先日訪れた向島百花園にはこの中のいくつかが美しく咲き乱れていました。(画像クリックで大きくなります)

       
              尾花(ススキ)

       
             女郎花(おみなえし)

       
        葛の花は終わって、実がなっていました

       
          藤袴(ふじばかま)

        
       萩のトンネルの入り口(裏画像はトンネル内部)

 残念ながら、葛は花が終わり実だけ、撫子(なでしこ)と桔梗は見ることができませんでした。

 葛は蔓性で、根は生薬の葛根湯として解熱剤に用いられたり、くず粉になったり、蔓の繊維で葛布を織ったり、また蔓で行李などが作られ利用価値が高い植物だそうです。

 今日は秋分の日。日増しに秋めいてくる朝夕は、何故かさみしさも運んで来る。
2005.09.23

食欲の秋

2005-09-22 00:04:01 | Weblog
 食欲の秋である。お腹が空いたときに買い物に行くと、いつも余計なものまで買ってきてしまう。
『鹿児島産のさつまっ子』 ン? 旨そう。甘く煮てある本場薩摩のサツマイモ、秋の夜長、PCで夜更かしするとお腹が空く。夜食にちょうどいい、と買って来た。
       
 甘いものにはお茶が合うが、夜中にお茶は眠れなくなる。でも、まっいいか、とお茶を入れ、おもむろに冷やしておいた「さつまっ子」を袋から取り出して器に開けた。
ちょっと形が変かなと思いながらも、心は甘く煮たサツマイモに。
お茶を一杯飲んでから、手で掴んで口に入れた。
しょっぱくて、硬くて、噛んだら「ガリッ」と音がした。

なんとそれは“たくあん漬け”だった。
おかしいやら腹立たしいやら、思わず一人で苦笑い。

 思い込みの激しい僕にはよくあることだが、ここに来る段階で気がつかなければならないことがたくさんあった筈。

 秋の夜長はお腹が空いて、腹が立つ。
2005.09.22

雨月

2005-09-21 09:22:13 | Weblog
 昨夜の東京は雨。あの美しい月は何処(いずこ)・・・。
しかし日本語には、雨で見えない月まで愛でる言葉がある。雨月(うげつ)。

 そこで今日はせめて写真でと、19日の朝日新聞の一面を大きく飾った《中秋の名月》を紹介します。
ご覧になった方も多いと思いますが、その素晴らしさはさすがプロ。


お邪魔かな
 中秋の名月の18日夜、東京・羽田空港では着陸態勢に入った飛行機と満月が幻想的な景観を作り出した。


 こんな記事と共に掲載されたこの写真を見てただ溜息。
日本気象協会によると、東京で中秋の名月が雨や雲に邪魔されなかったのは、過去10回のうち96年と00年、03年、今年の計4回だそうです。

 さて今宵の月は居待月、部屋で座って待つことにしよう。果たして姿を見せてくれるだろうか?
2005.09.21

十六夜

2005-09-19 23:59:05 | Weblog
 昨日に続き今日の東京は晴天に恵まれ、昨夜の満月に勝るとも劣らない十六夜(いざよい)の月が、残暑を惜しむ夜空に輝いていた。
       
       隅田川の護岸からの十六夜の月《午後11:30頃》
 
 先人の素晴らしい感性は、雪や花と共に月は特別なものとして、風流な名を付けた。
『夕月 宵待月 宵月 有明月 暁月』と、同じ月でも時間帯によって呼び名が変り、他にも月を表わす名称は数限りなくある。

 また月の満ち欠けにも、それぞれに優雅な名前が付いている。
旧暦
 8月13日 十三夜  《言わずと知れた13日の月》
 8月14日 待宵   《明日の名月を待つ宵の意》
 8月15日 十五夜  《望月とも言う》
 8月16日 十六夜  《いざよい》
 8月17日 立待月  《たちまちづき》
 8月18日 居待月  《いまちづき》
 8月19日 寝待月  《ねまちづき》

 このように十五夜をはさんでの風流な呼び名をはじめ、旧暦の30日間全てに呼び名があるそうだ。

 満開の桜よりも、散りはじめた花びらが風に舞う頃が好きな僕にとって、月も満月の美しさは言うに及ばず、少しづつ形を変えて輝く十六夜以降の月が好きだ。
これから数日、日々変っていく月の姿が楽しめます。
2005.09.19

中秋の名月

2005-09-18 23:53:05 | Weblog
 十五夜の今宵、墨田区の向島百花園では、月見の会が開催された。
この庭園、特別な手を加えず、自然のままの姿が保たれている数少ない庭園の一つである。

 涼やかな虫の音を聞きながら月の出を待つ園内は、秋の七草をはじめ、この園の名物である萩のトンネルや、琴の演奏、お茶会とそれぞれの嗜好に合わせた楽しみ方ができる。

 夕闇の中、待ちくたびれた満月が木立の中から顔を出すと、その美しさに何処からともなく、「オォ~ゥ」という歓声が上がった。

       
    その姿は、まさに中秋の名月。我を忘れる一瞬でもあった。

       
この日のためだけにあるのではないかと思うほど、ススキと月はよく似合う。

            
     萩のトンネルは、紅白の花が見事なアーチを作っている。

       
       秋の七草の一つ、女郎花(おみなえし)の群。 

       
       間もなくお彼岸、赤い彼岸花も園内を彩っていた。

       
         白い彼岸花も美しく咲いている。

 向島百花園では、明日(19日)まで月見の会を開いている。一年で一番美しい月が、旧暦8月15日(十五夜)の月です。(全ての画像が大きくなります)

2005.09.17

言葉は人

2005-09-17 23:45:56 | Weblog
 たくさんある美しい日本語の中から二つ選ぶとしたら、迷わず選ぶ言葉がある。
『ありがとう』『さようなら』 の二つである。

『ありがとう』は、言っても、言われてもうれしいものだ。
人に褒められたとき、素直に「ありがとう」と言うのは結構難しい。
つい照れたり、謙遜したりして「いや、そんなことありませんよ」などと言ってしまう。
せっかく褒めてくれたのだから、素直に「ありがとう」と言ったほうがスマートだ。謙遜するなら、それからでも遅くないと思う。
「ありがとう」をたくさん言える人間になりたい、それは、褒められたり、感謝しなければ言えない言葉だから。 

『さようなら』は、ひびきが好きであるが、あまり使いたくない。使うなら後ろに「またね」を付けて使いたい。
人生長く生きていると「さようなら」を言った回数も多い。
もっとも悲しい「さようなら」は同時に「ありがとう」でもあった。

  ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆

 ・・・・・そして一時間後、規則正しく立てていた寝息が、突然、ひと呼吸大きな呼吸になりました。
「 * * * * * 」
声をかけても反応はありません。呼吸は止まり、脈も止まっています。

・・・・・・・中略・・・・・・・

 それから4~5分経ったでしょうか。看護師さんに電話しているときです。突然眼を開き、口を動かしたのです。そして起き上がろうとしました。慌てて電話を切り、何度も名前を呼びました。すると、もう一度眼を開けて、口を動かそうとしています。しかし、先ほどのような力はありません。そして二度と眼を開けることはありませんでした。
 あれは何だったのでしょう。最後の力を振り絞って、私に別れを告げようとしたのでしょうか。
「ありがとう!」 そして 「さようなら!」
私と全く同じ言葉を言ってくれたに違いありません。

   ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆


 ある雑誌に載った、僕の体験談の一部分です。

 言葉は人を表わす道具でもある。美しい日本語を上手に使ってより美しくなりたいものです。

 このブログにコメントを下さる皆さんや、コメントはなくても興味を持って訪問して下さる方々に、今夜は「ありがとう」を言わせてください。
でも、「さようなら」は言いません。「またお逢いしましょう」
2005.09.17

言葉の宝石

2005-09-16 23:43:55 | Weblog
 僕は、しばしば言葉の暴力を振るってしまうことがある。言葉は使いようによっては、凶器にもなるし、人の心を和ませる役割も果たす。
美しい言葉は時として宝石のような輝きを放ち、大きなダイヤモンドの指輪よりも光り輝き、その人を魅力的に見せてくれる。

 美しい立ち居振る舞いで、美しい日本語を話すことが出来たらそれはもう、どんな宝石を身にまとっても敵わない。

 日本語には七五調という美しい表現方法もある。美しい文章を読むとき、目で読むだけでなく、声を出して読むことによって、その美しさが倍増される。
昨日紹介した、「ジェットストリーム」の番組の中でのナレーションもその一つ。もう一度声を出して読んでみてください。
この番組を聞いたことのある方でしたら、あの日にタイムスリップできるかも知れませんよ。

◆こんな本もある 

        

「声に出して読みたい日本語」から
 ◆いま、暗誦文化は絶滅の危機に瀕している。歴史のなかで吟味され生き抜いてきた名文、名文句を声を出して読み上げてみると、そのリズムやテンポのよさが身体に沁み込んでくる。そして身体に活力を与える。


 御存知とは思いますが、この本のなかでも取り上げられている宮沢賢治の「風の又三郎」の一節を紹介します。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

            『風の又三郎』
 
     どっどど どどうど どどうど どどう
 
     青いくるみも吹きとばせ

     すっぱいかりんもふきとばせ

     どっどど どどうど どどうど どどう

     どっどど どどうど どどうど どどう


     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 「風の又三郎」は一人の転校生をめぐるものがたりです。 よそから不意にやってきて、またどこへともなく去ってゆく。そのあとには・・・。

この物語、もっと知りたい方は風の又三郎 をご覧下さい。
2005.09.16

ジェットストリーム

2005-09-15 21:25:00 | Weblog
 訪れては去り、去ってはまた訪れる。芽生えはじめた恋のように頼りない秋は、やっと手の届くところまでやってきた。
昨日まで乾いた喉を潤した冷茶より、今日は熱い緑茶が旨い。(あ~ぁ、年寄り~)
見上げれば十五夜を3日後に控えた秋色の月が、雲間から往く夏を惜しんでいる。

       

 そんな夜に似合うCDがある。
1967年から30年以上も続いたFM界最長番組「ジェットストリーム」のCDである。

       

◆ジェット機の飛行音に続いて流れてくる「ミスター・ロンリー」の、甘く切ないストリングスの旋律にのって、静かな声で軟らかく語りかける城 達也氏のナレーション。

 遠い地平線が消えてふかぶかとした夜の闇に心を休める時
 はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は
 限りない宇宙の営みを告げています

 満天の星をいただく果てしない光の海を 
 ゆたかに流れゆく風に心を開けば
 きらめく星座の物語も聞こえてくる
 夜の静寂(しじま)のなんと饒舌なことでしょう

 光と影の境に消えていったはるかな地平線も 
 瞼に浮かんでまいります


◆午前0時から始まるこの番組、静かに流れるイージーリスニングは、夢の世界へ誘(いざな)う子守唄。
夢うつつに聞こえてくるその声は、恋の終わりか、秋の訪れか?

 何時が夏の終わりか知るよしもなく、
 気づけば、蹌踉(そうろう)と日暮れの秋風の道を・・・。

 そんなことがあってから、私は用心深くなって、
 日毎、恋人がコーヒーに入れる
              砂糖の数まで数えるようにしてきたが、
 そのためにかえって恋人の心変わりを早めたかもしれない。

 ロダン美術館の秋の庭に木の葉を踏みながら、
                      彫刻の相手を独り言して、
 つまるところ恋は戻らない、灰色の空模様だというのだ。


◆秋の夜は長い。この10枚組のCDの出番でもある。

 夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、
 遠ざかるにつれ次第に星のまたたきと区別がつかなくなります。
 お送りしておりますこの音楽が美しく
            あなたの夢に溶け込んでいきますように。

 
残念ながら、この番組今はない。
2005.09.15    

天使の翼

2005-09-13 23:04:58 | Weblog
 立ち居振る舞いにはその人の人柄や、その内面、時として知性までも見えてしまうことがある。
美しい立ち居振る舞いは、それだけで魅力的であり、人を惹きつけるものがある。

 それはダンスにおいても同じ事が言える。美しい姿勢を保って踊るという事は非常に難しい事であるが、無理矢理複雑なステップを踏むより、やさしいステップでもきれいな姿勢で踊ることのほうが、より魅力的だと思っている。

 以前、NHKの趣味の講座で、美しい立ち居振る舞いについての講座をやっていたことがある。
宝塚のトップスター二人の出演による講座は、興味深いものだった。

 彼女達が舞台の上で心掛けている、美しい立ち居振る舞いについて《天使の翼》の話をしていた。

 《天使の翼》とは、肩甲骨の事である。肩を後ろに引かずに左右の肩甲骨を近づけるようにする。そうする事で背筋が伸び、姿勢がぐっとよくなる。そのときに気を付けることは、胸を前に突き出すのではなく、お腹を引いて身体を上に伸ばすようにする事が大事である。つまり、肩甲骨を天使の翼に見立てて、背中に翼を作るのである。

 これはダンスにも言えることで、この姿勢を保って踊る事は至難の業である。だからこそ美しさが際立つのだと思うが。

 いつもこの姿勢を保とうと思ったら大変だが、ここ一番というときに心掛けると効果的だ。
特に女性の美しい立ち居振る舞いは、間違いなくその魅力をアップさせること請け合いです。自分をより魅力的に見せたいときに是非お試しください。

 一日一度、天使の翼を作ることを心掛けてみてはいかがですか?歩く姿も自然に美しくなり、その姿勢にもなれてくる筈です。
そして《天使の翼》は、あなたに幸せを運んでくれるかも知れません。
2005.09.13

小選挙区比例代表並立制

2005-09-12 23:58:33 | Weblog
 第44回総選挙は自民党の歴史的圧勝で終わったが、「小選挙区比例代表並立制」という制度、どうも納得いかない。

 小選挙区は、日本全国を300の小選挙区に分けて、ひとつの選挙区から当選するのはひとりだけ。
比例区は、11ブロックで、総定数180。合わせて480議席になるわけだが、小選挙区では、接戦の場合得票率が低くても、一位であれば当選するので、死票が多くなる。

 例えば、一位の得票率が35%であった場合、残りの65%は死票になるわけだ。
その結果、各政党の得票率の差が少なくても、議席数では大きな開きがでることもある。

 今回の場合、小選挙区での得票数で見ると、自民党と民主党は3,251万票対2,480万票で、得票数では1.3倍だが、議席数では4倍を超す差がついている。

 また、小選挙区制と比例代表制、どちらにも立候補できる「重複立候補」制度があり、小選挙区で落選しても、比例区で当選してしまう。
それなら、小選挙区で投票する意味がないと思うのだが・・・。

 この矛盾、僕の頭では理解できないのだが、皆さんは納得しているのでしょうか?
 
《衆議院総選挙の仕組み基礎の基礎》 こちらに衆議院総選挙の仕組みについて、わかりやすく解説されています。
2005.09.12