勿忘草 ( わすれなぐさ )

「一生感動一生青春」相田みつをさんのことばを生きる証として・・・

思いやりとは・・・

2006-06-30 23:59:25 | Weblog

 行方がわからなくなっていた母鳩が帰ってきた。いや、姿を見たというべきか。
ヒナの育ち方からすると、毎日餌を与えに来ていたに違いない。僕が知らなかっただけなのだろう。

 以前の様に、向かいの電柱にとまっている姿を見たときの嬉しさは、後悔と共に安堵の胸を撫で下ろした。
それも、母鳩が卵を温め始めた頃から姿を見せなくなっていたもう一羽も、一緒にいるではないか。
そうか、父鳩にも何かの役割があったのかもしれない。それを、勝手な早とちりで、一羽のヒナをカラスの犠牲にしてしまった僕は、許されるはずもないのだが、これで安心して残された一羽を見守ることが出来る。

 二羽の親鳩が、仲良く愛を育んでいるのを見ると、なんとも微笑ましい。こうなる事が解っていたのなら、何も僕がお節介をする必要はなかったのに・・・。返す返すも残念だ。

 あの、相田みつをさんも言っている。


 お節介が過ぎるとそれは親切ではないのだ。「そっとしておく おもいやり」も、時には必要なんだなぁ。
2006.06.30

未完の完

2006-06-29 22:26:53 | Weblog

☆真夏日の太陽の下に咲く、オオハンゴンソウ?☆
 
 人は誰にも得手・不得手がある。完全無欠な人間などいない。例え、いたとしても、はたして魅力があるだろうか?

 日光の陽明門は、完璧すぎることを恐れ、柱の一本を、敢えて本来忌み嫌われるとされる逆柱(さかばしら)にしたという。

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 「薄絹で装丁した本の表紙は、傷みが早くて困る」と嘆く人がいた。それに対して、友人の頓阿(とんあ)が、「薄絹の表紙は、上下の縁がすり切れて、ほつれたほうが、また巻物の螺鈿(らでん)の軸は、ちりばめた貝が落ちた後のほうが深い味わいが出るものだ」と答えたのには感心させられ、彼を改めて見直した。

 何冊かをひとまとめにして一部とする草子の場合、各冊の体裁が不揃いなのはみっともない、と文句をつけるのがふつうだ。
けれども、弘融僧都(こうゆうそうず)の「品物をきっちり同じに揃えようとするのは、ものの命がわからない人間のすること。不揃いこそが最上なのだ」という言葉には、わが意を得た思いがした。


 何事においても、すべて完全に整い、完結しているのは、かえってその仕事の命が終わることになり、よろしくない。やり残した部分をそのままに放置してあるのは味わいも深く、仕事の命を将来につないでやる方法なのだ。

 「内裏を造営するときも、必ず未完の部分を残すものだ」と、ある友人が言った。

(頓阿も弘融僧都も兼好と親しい友人)

-吉田兼好「徒然草」(角川文庫)よりー 
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 そういえば、シューベルトの「未完成交響曲」も立派な一つの作品として成り立っている。

 完成された人間よりも、未完成な人間のほうが、時に魅力的であったり、ホッとさせられたりします。
欠点だらけの人の方が、完璧な人間よりもより人間的に見えることはありませんか?

 もしあなたが、自分の知識や、未完成な部分を恥じる事があったとしても、それはあなたが魅力的であるという証です。
 
 兼好も「未完の完」を薦めています。おおいに未完成のままでいようではありませんか。
2006.06.29

悔恨

2006-06-28 22:18:24 | Weblog

 良かれと思って行動したことが、却って仇になる事がある。良くある事ではあるが、悔やまれる。

 母鳩がいなくなり取り残されたヒナを育てようと、浅い籠にタオルを裂いて敷き、手の届く場所に移動させた。
数時間の外出から帰ると、ヒナを隠しておいたゴミの袋が散乱している。覗くとヒナはもとの場所に戻っている。それも一羽だけ。
辺りを見回すが、もう一羽はどこにもいる様子はない。愕然!
  数日前、ベランダで人がいるのではないかと思うほどの音がした。恐る恐るベランダを覗くと、そこには黒くて大きなカラスがいた。追い払ったがすぐに戻ってくる。しばらく見張っているとどこかに行った。鳩のヒナを狙っている事は想像できた。
  ふとベランダの手すりを見ると、今までなかった汚れがある。それも赤く、血である事は間違いない。
なんということをしてしまったのか!自分で育てようとした事が仇になってしまった。
そういえば籠に移したとき、ヒナは一番奥の隅に身を寄せた。本能がそうさせたのか。カラスに襲われ、一羽だけは元の場所に逃げる事が出来たのだろう。
卵を産んだ場所はカラスに襲われにくい場所だったのか。悔やまれて仕方ない。

 このヒナ、意外と元気である。既に2日近く何も食べていないだろうに・・・。
待てよ!もしかするとヒナの育ち方からすると、もう温めなくてもいいほどに育っていたのか。
母鳩は餌を食べさせにだけ来ているのかもしれない。まだ一度も姿は見ていないが・・・。

 人間の浅知恵で余計なことをしたために、命を落とす事になってしまった。あるがままがいいこともある。許してくれ子鳩よ!
今日は悲しい日になってしまった。
2006.06.28

行方不明

2006-06-27 23:11:43 | Weblog

 昨夜から母鳩が帰らない。昨日の午後4時過ぎにはヒナに餌を与えている姿を見た。夜になって見に行くと、ヒナが身を寄せているのに、母親の姿がない。

 毎朝、夜明けと共にどこかに出かけ、昼前に帰ってはヒナに餌を与えている様子だった。その後はじっとヒナを抱いている。
そんな姿を見るのが楽しみで、徐々に大きくなるヒナが巣立つ日を待ち望んでいたのに・・・。

 鳥が夜行動するはずもないのはわかっていながら、昨夜は何度も何度も見に行くが、とうとう朝になっても母鳩は戻らなかった。

 見に行く音でヒナは顔を上げる。母親が来たと思うのだろうか。
ケーキのクリームとカステラを口元に持っていくが、食べようとはしない。
近所にある小鳥やさんに行って鳩の餌をたずねると、あわ玉を薦めてくれた。
それをお湯で柔らかくしてあげるといいが、まだ生まれて間もないヒナが自力で食べるのは無理だろうと言う。飛び立つまでは1ヶ月以上はかかるので、育てるのは困難だろうと言われた。

 どこに行ってしまったのだろう。事故にでも遭ったのだろうか?
あれほど悩み、処分しようとさえしたのに、ヒナが孵って育てる姿を見ていると、情が移ってしまう。今夜もヒナは身を寄せて母親の帰りを待っている。

 ゆきずりに見守ることになった鳩でさえ、こんなに心配なのに、これが我が子であったり、愛する人だとしたら、どんなにか胸が痛む事だろう。

 よすがのない帰りを待つのは、こんなにも辛いものなのか!
2006.06.27

人間だもの

2006-06-26 22:59:03 | Weblog

 子供の頃、外ではいい子を演じていた僕にとって、友達を選ぶとき、優等生では面白くない。
いつも魅力を感じる友人は、みんな『ちょいわる』であった。

 高校生のとき、何人かいる友人の中で、もっとも魅力的だったのは、いつも先生から怒られている名だたる『わる』であった。
『わる』といっても、他人と喧嘩をしたり、暴れたりする『わる』ではない。
授業をサボってタバコを吸ったり、麻雀をしたり、授業中に悪戯をして先生に「出て行け!」と言われると、さっさと教室を出て行ってしまうような、そんな『わる』である。

 彼の家に遊びにいって、家族麻雀をした。ちょうど遊びに来ていた彼の親戚の子も一緒だった。
その子が上がれない手で上がってしまったとき、友人は彼に言った。
「今度上がるときは、ここをこうしてこうなってから上がろうね」
「それでは上がれないよ!」と責めるようなことは言わない。
学校では『わる』を演じている彼の心を見たようで嬉しかった。

 或る日、駅のホームで待ち合わせをした。待てど暮らせど来ない彼をホームで2時間待った。
2時間後に来た彼の言い訳は、麻雀だった。
僕は嬉しかった。2時間も待たせて来る彼も凄いが、2時間も待ったわけは、必ず来ると信じたから。
途中で麻雀を抜け出せない彼の性格の優しさも嬉しいが、言い訳がその場を繕った言い訳でないことも嬉しい。

 体操の時間に、柔道の技の試験があった。僕と組んだ彼は、僕が投げようとしたその瞬間、まだ何もしないのに2メートルも先に跳んでいた。

 人の魅力はうわべではない。『心』であるといつも思っている。
人と付き合うとき、その人が自分にとって損か徳かで決めるのは嫌いだ。
その人の心を見たい。心と心でのふれあいを大切にしたい。
2006.06.26

偽善も善

2006-06-25 23:15:19 | Weblog
 子供の頃の僕は、いい子でした。学校でも、いけないといわれたことは絶対にやりません。
家に帰ると親父の言う事はきかない、反抗ばかりで、いつも殴られている悪い子でした。
外に出るといい子になる自分が嫌いでした。いつもいい子を演じていたのです。
その反動か、今は悪たれジジイです。
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 人の心素直ならねば、偽りなきにしもあらず。されどおのずから正直の人、などかなからむ。

中略

 狂人のまねとて大路を走らば、すなわち狂人なり。悪人のまねとて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥のたぐひ、舜(しゅん)を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。
偽りても賢を学ばむを賢というべし。


 
 人間の心はまっすぐではないから、嘘をつくこともある。ただし、生まれつきの正直者がいないわけではない。
ところが、自分は不正直なのに、他人の正直を羨ましく思うのが人間というもの。

 しかも大ばか者は、まれにいる正直者を見ると、かえって憎しみを抱く。
「内心はもっとでかい利益をねらっているので、小さい利益はわざと受け取らず、いいかっこうをして評判をあげる魂胆なのだ」と中傷する。
自分の本心とは合わないからといって、こう嘲笑するのでよくわかる。
・・・この大ばか者は死んでも直らない。たとえ嘘でも小さな利益を断れないし、賢人のまねさえできない。

 狂人のまねだといって大通りを走れば、本物の狂人になる。悪人のまねだといって人を殺せば、本物の悪人になる。
駿馬をまねる馬は駿馬の仲間、中国の聖人舜(しゅん)をまねれば聖人舜の仲間に入る。

 たとえ本心からではなくても、賢人を見習おうと努める者は、賢人と呼んでもいいのだ。

-吉田兼好「徒然草」(角川文庫)より-
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 偽善とか偽悪とか、言葉に惑わされてはいけない。嘘でも善事を積み重ねれば、人格者へと向上していく。偽悪も同じである。
何を真似るかが問題であって、人格は、真似ることによって向上すると兼好はいう。
「まねる」は「学ぶ」の語源だそうです。
2006.06.25

人は善?それとも・・・

2006-06-24 22:12:44 | Weblog
 悲しい事件が多い。'99年、山口県で主婦を強姦しようとして殺害し、11ヶ月の幼い長女をも叩きつけて殺したという、当時18歳の少年の無期懲役の二審判決を、最高裁が破棄した事件。この犯人に同情の余地などない。遺族の激しい怒りのコメントも理解できる。

 奈良県では、医師の長男で16歳の少年が我が家に放火し、母子3人が亡くなり少年は逮捕された。
少年の犯したことは許される事ではない。しかしこの少年がここまで追い込まれなければならない過程を思うと、不憫でならない。
サッカーを見たくて忍び込んだ家で、寝込んでしまった無防備な少年の心。考えるだけで胸が痛い。

 人間は誰もが二面性を持っている。悪魔と天使、ジキルとハイド、そのときどきにどちらかが頭を持ち上げてくる。そこで働くのが理性。それは経験や学習によって培われるものなのだろうか。

 人間は生まれながらにして他人を慈しむ心を持ち、善は普遍である、と「性善説」を説いたのは孟子。
 
 また、善意というものは後天的に習得するものだと提唱する「性悪説」を説くのは荀子。
しかしそれは人間が生まれながら「悪」だと言っているのではなさそうである。
人間が本来持ち合わせている欲望や憎悪や嫉妬心などによる心を言っているのであって、それらを悪とするのは後天的に学習するものであり、それによる犯罪などを戒めているのではないだろうか。


 この説には様々な解釈があるようだが、僕は人間は生まれながらにして善であると信じる。

 前述したように、人は誰しもが様々な顔を持ち、理性のコントロールや、人によって見せる顔にも違いがあるだろう。
人との関わりの中でそれらを認めたうえで、良いところを見てお付き合いすることが上手な付き合い方だと思う。誰もが自分にとって都合がいい訳ではないのだから・・・。

 このブログを訪れてくださる皆様の善意と優しさには、いつもながら感謝に耐えない。
皆様のコメントには限りない優しさと善意が込められている事がよく理解でき、誰もが持っているであろう二面性を超越して、その人柄に触れることが幸せを感じさせてくれる。

 次々と起こる幼い生命を巻き込んだ許しがたい犯罪に、怒りと悲しみを込めて、性善説・性悪説を考えてみました。

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-今日の鳩の親子-

早朝に親鳩はどこかに出かけ2羽のヒナが寄り添うようにじっと待つ。 

夜になると胸の下にヒナを抱いて、近づいても動かない。

2006.06.24

生まれましたぁ!

2006-06-22 22:16:00 | Weblog

 クククゥ~・クククゥ~という声にベランダに出てみる。鳩が卵を温めている場所をそっと覗いてビックリ。
親鳩が飛び立った後に、なんと2羽のヒナが身を寄り添ってじっとしているではないか。
 
 ここ数日、鳩を脅さないようにそっとしておいたので、いつヒナが孵ったのかわからなかった。

 今月2日、卵を発見してから処分しようかどうか迷い、皆さんにも意見を伺ったが、そのまま見守って20日。ついにヒナが孵ったのだ。
まだ産毛ではあるが、この大きさは昨日今日生まれたのではないだろう、卵の殻もない。

 そういえばこの数日間、ベランダに出ても逃げ出したりせず、じっとしていたのはそういう訳だったのか・・・。

 あの時、卵を処分していたらこの感動を味わう事は出来なかった。ちょっと感激の午後でした。
今夜も親鳩は胸の下にヒナを抱いてじっとしているのです。(TTToTTT)
2006.06.22

リクエストに応えて・・・

2006-06-21 23:29:29 | Weblog

 沖縄は梅雨が明けたというが、東京はこれからが梅雨本番。日本列島の長さを改めて知る。
この時期どこを歩いても紫陽花の美しさが際立っている。鬱陶しい梅雨空も紫陽花の美しさには敵うまい。

 最近、我がブログにコメントをくださる、その名もおじさんにとっては刺激的な「新妻ちゃん」。
ご自身の紫陽花の記事 に、こんなコメントを残してくれた。

紫陽花のイラストに挑戦しましたが失敗…
そして断念
かわりに描いていただけないでしょうか

 頼まれて嫌といえないのが江戸っ子、なんて粋がるほどの者でもないが、せっかくの依頼を受けなきゃ男じゃない。

 描いて見ました、紫陽花の花。こんなものでもよろしければ、どうぞお持ち帰りください。お近づきの印です。

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 ところで紫陽花は、一般に花びらに見える部分は、雄しべ・雌しべが退化し花冠と萼(がく)だけが発達した装飾花で、中心部で小さくめだたないのが本来の花だそうです。西洋紫陽花ではすべてが装飾花に変化しているという。
そういえば、あのハンカチの木もそうでした。
2006.06.21

柳とカエル

2006-06-20 20:41:20 | Weblog

 小野道風は平安時代の代表的な書家三蹟 の一人で、現在の愛知県春日井市出身だそうだ。「おののみちかぜ」とも「おののとうふう」とも読み、平成12年には愛知県で記念切手が発売された。
また道風は柳とカエルと一緒に花札の絵柄にもなっている人物として知られている。
 
 ある時、池のほとりを散歩していた道風は、蛙が柳の虫を取ろうとして何度も飛び上るのを目にした。何度も何度も繰り返し飛びついていた蛙は、ついに柳に飛びつくことに成功した。それを見た道風は発奮努力して学問・書道に専心し、ついに大成したという。

 努力を続ければ必ず目的を達することができる、ということを教えてくれた蛙。
梅雨時の今頃、郊外では蛙の合唱が聞こえてくるのでしょうね。

 素敵な写真で何度も賞を取っているnao11さんのところにはこんなカエル もいました。
2006.06.20

シャボン玉

2006-06-19 21:06:52 | Weblog


 幼い頃の夢と郷愁をのせて飛ぶしゃぼん玉。七色にひかり輝く美しさは、その命の儚さ故か・・・。

<     ●     
          
  
しゃぼん玉 とんだ
やねまで とんだ
やねまで とんで
こわれて きえた
    
しゃぼん玉 きえた
とばずに きえた
うまれて すぐに
こわれて きえた
   ☆        
かぜ かぜ ふくな
しゃぼん玉 とばそ
   
かぜ かぜ ふくな
しゃぼん玉 
と ・ ば ・ そ
         
    
           
     
        
            

-しゃぼん玉-
作詩  野口雨情
作曲  中山晋平


     

 「しゃぼん玉」の作詩者・野口雨情は、初めて授かった長女みどりを、生まれて8日で失った。満2歳で亡くしている二女と共に、その短い命をシャボン玉にダブらせてこの詩を書いたという。


しゃぼん玉 とんだ
やねまで とんだ
やねまで とんで
こわれて きえた

しゃぼん玉 きえた
とばずに きえた
うまれて すぐに
こわれて きえた

 雨情にとってこの「しゃぼん玉」は、生まれた子供を成長させてあげられなかった鎮魂歌でもあったのだろうか?童謡には何故か悲しい秘話が多い。

 雨情は他にも数多くの童謡を書いているが、あの「赤い靴」 も雨情の詩である。

-雨情の代表作-

「十五夜お月さん」
「七つの子」
「青い目の人形」
「雨降りお月さん」
「兎のダンス」
「あの町この町」
「波浮の港」
「船頭小唄」
etc.

2006.06.19

父親

2006-06-18 21:08:57 | Weblog

ナスの花

 「親の意見となすびの花は千に一つの無駄もない」とか「親の意見と冷酒は後で利く」とかいいます。

 僕は子供の頃、厳しかった父を嫌いだった。口数の多い僕は口応えをするので、よく殴られもした。大人になって父を尊敬するようになったのはいつの頃からか・・・。
来月は父の13回忌の法要がある。


野草「ワルナスビ」 なぜか棘があり僕のよう

 子供を持ったことがない僕にとっては、親の苦労を知らない。しかし僕にかわいい息子が出来た。
皆さんはもうご存知と思うが、このブログで僕を「おとうちゃん」と呼んでくれる人がいる。

 彼から最初にいただいたコメントに好感を持ったが、その印象は今も変わらない。
若いのに気配りの行き届いた謙虚さは、持って生まれたものなのか、それとも母親や亡き父親の教育なのか。
スポーツ青年の彼の名は「おにぎりちゃん」。 

 彼は元サッカーの選手でGK(ゴールキーパー)として活躍した。それも岐阜県代表選手だったという。遠慮がちに過去のブログで告白している。

 彼は星野富弘さんと同じ頚椎骨折をしたが、幸い後遺症もなく、一男の父親として岐阜で元気に楽しく暮らす様子が、その人柄の良さと共にブログから覗える。

 まだ会ったこともなく、顔も知らないが、ブログに載ったその後姿からもナイスガイを思わせる。

 父の日に、初めて持った息子の自慢と、今夜行われるサッカーのワールド杯の応援をしながら、皆さんに彼の事も知っていただこうと思った次第です。
2006.06.18

株主になりました

2006-06-17 23:31:11 | Weblog


僕、今日から株主です。


 四季を通じて花の名所にしようと台東区が企画した「墨田公園花の名所づくり」の『アジサイ株主』に応募し、今日その植樹式に参加した。


 一株2000円での第1期募集は、目標の1000株を大きく上回り、「456名」「1292株」のアジサイが植えられたアジサイロードは、薄日の射す墨田公園を美しく彩り、数年後に大きく成長する姿が楽しみである。


 花壇の脇には後日、寄付者の名前とメッセージを刻んだプレートが設置され、その名を後世に残すことが出来る。

 将来は一万株まで増やす計画で、『アジサイ株主』は現在も第2期の募集中で、12月25日まで申し込みの受付をしているそうです。

 区外からの申し込みもでき、申し込み用紙の郵送もしてくれるそうですので、興味のある方はいかがですか。
お問い合わせは、台東区役所 公園緑地課(03-5246-1323)へどうぞ。

 この株を増やして、どこかの球団を買収しちゃおうかな。
2006.06.17

強いのは・・・

2006-06-16 23:52:52 | Weblog

マウスオンでご覧ください

 月に2度の高齢者ホームでのダンスの出張レッスンの楽しみは、郊外にあるその施設への道すがらに見る、都心では見られない光景もその一つである。
農作物の畑の一画では、風に揺れるコスモスの花に蝶や蜂が舞い、道ばたに咲く野の花も、季節を感じさせてくれる。

 農家の敷地内であろうか、木々の生い茂る中で咲く黄金色の花が、ひときわ美しく光輝いていた。



 その名は「ビョウヤナギ」と図鑑に載っていた。漢字では「未央柳」とも「美容柳」とも書くそうだが、その美しさと、葉が柳に似ているところから名づけられたらしい。
中国原産の「おとぎりそう科」の花で、仲間には「キンシバイ」があるという。≪注≫「おにぎりそう科」ではありませんよ。



 中央のめしべを囲むたくさんの長いおしべが特徴的で、カメラを向けシャッターを押した瞬間おしべがはらりと落ちた。
役目を終えた男の哀愁は、どこの世界も同じか・・・?(TTToTTT)
2006.06.16