いよいよ冬になる。温かいものに嗜好が変わって、汁粉と肉まんを食べるようになった。柿も旨い。
エロティシズムは寒くなると起こりにくい、と思っていたが、眠れるようになって、体調が良くなって、結構、書ける。真夏は、夜、眠れないので、不眠だと当然、小説は書けない。
作家の島田雅彦氏の本の中に、全てを書き尽くした後に作家が始まる、と書いてあった。至言である。つまり、自分が書きたい事の全てを書き尽くしてしまった後に、それでもまだ書き続ける意欲を持っている人が作家である、という意味である。
私は、今まで、全てを読みつくした後にそれでも書きたい人こそが作家である、と思っていた。つまり、どんな作家の素晴らしい作品を読んでも、それでも、まだ満足できず、どうしても書きたいものを持っている人こそが作家である、と思っていた。母親は、詩とか短歌とかを、やっていた時期もあったが、今ではやめてしまった。母親は、三浦綾子の「氷点」を読んで、自分の書きたいと思っていた事を三浦綾子が書いたので、自分が書かないでも満足した、と言っている。
田原総一郎は、作家になりたいと思ってたが、大江健三郎の小説と、石原慎太郎の「太陽の季節」を読んで、自分は作家にはなれない、と諦めた。
ちなみに石原慎太郎の「太陽の季節」は単なるアプレゲールの作品ではない。と私は思っている。マラで障子を突き破る事は、別に大した問題ではない。それよりも「太陽の季節」の中で、母親に対する愛情の考察を懸命に書いている所があるからである。アプレゲールの勝手気まま、無思想の自由奔放を描こうとしたなら、ああいう考察は書かないはずである。そもそも戦後のアプレゲールの無思想の時代にあって、懸命に生きる意味を考えようとしたからこそ、小説を書いたのではないか。そもそも小説を読むのは、誰にでも出来るが、小説を書くには、しっかりした動機と意志がなくては出来ない。
エロティシズムは寒くなると起こりにくい、と思っていたが、眠れるようになって、体調が良くなって、結構、書ける。真夏は、夜、眠れないので、不眠だと当然、小説は書けない。
作家の島田雅彦氏の本の中に、全てを書き尽くした後に作家が始まる、と書いてあった。至言である。つまり、自分が書きたい事の全てを書き尽くしてしまった後に、それでもまだ書き続ける意欲を持っている人が作家である、という意味である。
私は、今まで、全てを読みつくした後にそれでも書きたい人こそが作家である、と思っていた。つまり、どんな作家の素晴らしい作品を読んでも、それでも、まだ満足できず、どうしても書きたいものを持っている人こそが作家である、と思っていた。母親は、詩とか短歌とかを、やっていた時期もあったが、今ではやめてしまった。母親は、三浦綾子の「氷点」を読んで、自分の書きたいと思っていた事を三浦綾子が書いたので、自分が書かないでも満足した、と言っている。
田原総一郎は、作家になりたいと思ってたが、大江健三郎の小説と、石原慎太郎の「太陽の季節」を読んで、自分は作家にはなれない、と諦めた。
ちなみに石原慎太郎の「太陽の季節」は単なるアプレゲールの作品ではない。と私は思っている。マラで障子を突き破る事は、別に大した問題ではない。それよりも「太陽の季節」の中で、母親に対する愛情の考察を懸命に書いている所があるからである。アプレゲールの勝手気まま、無思想の自由奔放を描こうとしたなら、ああいう考察は書かないはずである。そもそも戦後のアプレゲールの無思想の時代にあって、懸命に生きる意味を考えようとしたからこそ、小説を書いたのではないか。そもそも小説を読むのは、誰にでも出来るが、小説を書くには、しっかりした動機と意志がなくては出来ない。