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逆襲するさらりーまん

ーやっとこさ英検1級、通訳案内士試験合格。しかし英語の道は長い。基本的にやり直し英語+その時々に思うことなど。-

最近の学習状況 -継続と反復ー

2015年09月27日 13時01分37秒 | 一般的英語学習

今週の週末は雨模様の肌寒い日が続いていますね。真夏から一挙に秋が深まった感じです。

5連休のシルバーウイーク後の学習状況ですが、会社のあるウイークデイは、通勤の往きの電車の中では、ウォークマンに録音している、『 英検1級 Pass 単熟語 』をひたすら聴いています。1度合格した英検1級をもう一度受ける根性も時間も僕にはありませんが、 『 英検1級 Pass 単熟語 』に出てくる単熟語は、ちょっと込み入った深い内容の話を英語でするときや、『 TIME 』にも頻出するので、厳しい見方をすれば、『 英検1級 Pass 単熟語 』程度(?)の単熟語程度は常に使えなければならない、と思います。

例文も語法の解説もなく、アマゾンなどの書評では評判はよくないですが、ちょっと難度の高い頻出英単熟語という観点からは、よくまとまっていると思います。100回ぐらい繰り返し聴けば、ほとんど思いだすのではないか、と思います。 

帰りの電車の中では、座れますので、『 TIME 』をじっくり読んで、分からない単語が出てきた時は、その単語の登場回数が多いキーワードの場合は、赤ボールペンで印をつけて家に帰って調べるようにしています。

僕の実力では、『 TIME 』の中の自分の知らない単語に印をつけると、1ページに10語も20語も出てきます。それでは本来の読む楽しさや速さが失われ、イヤになってしまいますので、印をつけて後で調べる単語は、1ページに1つか2つのキーワードに留めています。

考えてみると、これらの学習は、4年前に英検1級の合格を目指してやっていたこととほぼ同じであり、つくづく自分の記憶力の無さと進歩の無さに愕然とします。

しかし、英語に限らずどのような習い事も、継続して反復しないと簡単に忘れてしまうことは、今までの経験で分かっていますので、4年前と変わり映えがしない学習でも続けています。


話は変わりますが、僕の好きな映画の一つに『 愛と悲しみのボレロ 』があります。(原題は、仏語の『 Les uns et les autres 』でなんと訳せばいいのでしょう、『 自己と他者 』でしょうか。謎めいた中々意味深な原題です。)

この映画を観たのは25年以上も前で、その時はあまり深く考えず、ただ今は亡き天才ダンサーのジョルジュ・ドンの踊りに圧倒された記憶があります。

また、この映画の冒頭に、『 人生には2つか3つの物語しかない。しかしその物語は何度も繰り返される。まるで初めてであるかのような残酷さで。』というナレーションがあったとも記憶しています。

僕の英語学習もまさにその通りですね。何度も同じことを繰り返しています。

英語学習はさておき、この映画は長いですが、中々深いものがあると思いますので、僕は年を食った今、もう一度この映画を観てみたいと思っています。

 

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シルバーウイークに片づけの魔法

2015年09月23日 21時25分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

会社勤めの方は、5連休だった人も多いのではないでしょうか?

僕も、9月19日から23日(今日)まで5連休でした。おおむね天候がよかったので、外へ出かけた人も多いと思います。僕は9月22日が女房の誕生日だったので、山梨の方へ女房とゴルフに出かけ、帰りは焼き肉を食べてお祝いをしました。

いつもは、休日は中央自動車道は小仏トンネルのあたりで大渋滞するのですが、22日は奇跡的に往きも帰りもひどい渋滞には巻き込まれませんでした。

その他の日は、今まで仕事や親の介護で忙しくて出来なかった家の中の片づけをしました。

片づけといえば、今までに『捨てる!技術 (宝島新書 辰巳 渚 著)』を読んだことがあります。

この本は、またいつか使うかもしれないとか思って貯めておくものは、おそらく2度と使うことはないので、思い切ってどんどんゴッソリと捨てていこう!という主旨だったと記憶しています。

5連休の前に、連休中は片づけをしなければならないので、連休前の9月18日の仕事帰りに丸の内丸善へ行って買ってきたのが、『人生がときめく片づけの魔法 (サンマーク出版 近藤 麻里恵 著)』です。

この本は、僕が買った本は第67刷で、世界中で300万部も読まれており、以前書いたように、近藤 麻里恵さんは『TIME』の世界で最も影響力のある100人にも選ばれています。

僕は、おやじで感度が鈍いせいか、ブームの頃は読んだり観たりせずに、ある程度ブームが落ち着いてから読んだり観たりする傾向があります。(前にブログの記事に書いた『アナと雪の女王』『風たちぬ』もそうでした。)

この本は読まれた方も多いと思いますので、すでに説明不要と思います。この本でも、どんどん捨てることが書かれていますが、自分の感性を大事にし、本当に自分がトキメクものだけ残すことを伝えています。単なる片づけが、自分の価値観や生き方にも繋がってくるように思えてきます。

僕のように、モノを片づけても、すぐまたモノで一杯になってしまう人で、もしこの本を読んでいない方がいれば、文章も分かりやすく、お薦めの一冊だと思います。

 

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僕の誕生日と安保関連法案参院可決

2015年09月19日 10時30分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

久々に秋晴れのよい天気です。今日は57回目の僕の誕生日です。

くしくも僕の誕生日(9月19日午前2時過ぎ)に安保関連法案が参議院で可決されました。これで法律として成立してしまいます。誕生日ということもあり、僕はこの日を忘れないでしょう。

僕のブログのコンセプトは、一介のサラリーパーソンの英語学習記録ですので、政治向きの話はあえて避けてきました。今まで書いたのは約3年前のチャフラフスカの話ぐらいです。

しかし、今日の安保関連法案成立は、日本の大きな転換点ですので、書いてみます。堅い話になって恐縮ですが、少々お付き合い下さい。

僕は、純日本系の会社員でありながら、外国人と仕事をすることが多いので、前にも書きましたが、自分の意見をはっきり表明する癖がついています。(外国では自分の考えを表明出来ない者は、存在しないのとおなじこと、と看做されます。)

僕は、安保関連法案は絶対に反対です。(といっても成立してしまいましたが。)

その理由は、主に3つあります。

1、戦争決定の当事者と犠牲者は異なる。

近現代の戦争は総力戦です。昔の鎌倉時代の武士のように、戦いたい者が、一騎打ちで勝敗をつける、というものではありません。(それですと、男らしく、誰の目にも勝敗が分かっていいのですが。)
近現代の戦争は、実際に交戦を決定したもの(主に老人の政治家)と、最前線で戦う者(主に若者や一般市民)が 異なっています。交戦を決定した老人の政治家が一騎打ちでケリをつける(例えば安倍総理と習近平がリングに上がり、一対一でケリをつける)というのならば潔いのですが、近現代ではいつも戦争で犠牲になるのは、若者や一般市民です。さらには総力戦ですから、一旦戦争が始まれば、ロジスティックスが重要となり、最前線の戦場と補給部隊、補給基地、さらには兵器工場の区別なく、攻撃対象となり、一般市民が犠牲となります。

2、国民の民意を反映していない。

日本では事実上参議院は機能していないので、最終決裁権のある衆議院だけを考えると、前回の衆議院選挙 (昨年12月)での投票率は、52.66 %、そのうち、今回の安保関連法案に賛成した、自民、公明、次世代の党の得票率の合計は、51.34 %です。日本の場合、小選挙区制と比例代表制が混在していますので、得票率=議席数ではありませんが、分かりやすくするために、衆院選での有権者の政党支持率を計算すると、 投票率 52.66 % X 3党の得票率 51.34%=27.3 % しかなりません。有権者の約4分の1の民意しか反映されていないわけです。20 歳未満の非有権者まで考えるともっと民意の反映は小さいと思います。

最も、今の若い人は、例えば、20歳代の投票率は、わずか32.58 %と、三人に一人も選挙に行かないわけですから、もし選挙に行かないで、文句だけいう人がいれば、片手落ちのような気がします。

海外では、投票率が80%を超えないと当選を無効とする国もありますし、具体的には僕の駐在していたオーストラリアのように、国政選挙と憲法改正のような国民投票は国民の義務とされており、正当な理由なく投票しないと罰金刑(20豪ドル)が課せられます。投票の義務化はメリット・デメリット双方ありますが、結果としてオーストラリアの投票率は90%を超えています。これですと少なくとも民意は反映していると思います。

3、安倍首相および米国の戦略が信用出来ない。

近現代の日本史を少し学べば分かることですが、安倍総理の祖父の岸 信介は、太平洋戦争前に日本の一般国民を戦争の苦しみに導いた国家指導者の一人でした。米国主導による戦後の東京裁判は勝者が敗者を一方的に裁いたもので、かなりいい加減なものでしたが、そのいい加減さを割り引いてみても、倫理的に国民に謝罪すべき戦犯の一人です。本来ならば余生は自宅で謹慎しているべきでしょう。

それが、 米国の反共政策により、公職追放も解かれ、総理にまでなった人です。
もちろん、祖父が倫理観に欠けていたからといって、孫は別の人格ですから、全部悪いという訳ではありませんが、安倍総理は、祖父を目標として、それを超えたい、と明言しているのですから、そのメンタリティーは祖父と同じです。

また米国は世界の平和と自由と正義を守る盟主として戦うなどと、耳障りのいい言葉を口にしています。しかし、米国は今まで数々の戦争を(自国以外)で行ってきましたが、僕の知る限り、米国が『世界の平和と自由と正義』を守るために戦争したことは一度もありません。全て米国(自国)の国益、利権を守り、増やすためです。太平洋戦争しかり、ベトナム戦争しかり、イラク戦争しかり。。。

その米国だけの国益、利権のために、集団的自衛権の行使という名目のもと、ポチのように追従したり、手先に使われるのは決して日本の国益とはならず、ましてや世界の平和と自由には全く貢献しません。

が、米国のお蔭で戦犯を免れたり、戦後の復興に米国は色々支援したので、米国に物申せる政治家、官僚は少ないのでしょうね。

3、憲法9条に対しては違憲だか、憲法解釈の問題ではない

憲法9条に対し違憲かどうかは、近頃政治家のみならず、憲法学者や元裁判官、自称コメンテーターに至るまで、様々な人が色々な解釈を披歴しています。 憲法9条の2つの骨子は、戦争の放棄と陸海空その他の戦力を保持しないことですが、どこからどう憲法9条の文章を解釈してみても、自衛隊は陸海空合計23万人の兵力と近代的装備を持つ戦力ですし、集団的自衛権の行使については戦争そのものです。

最初から憲法違反は明白です。もっとも僕は自衛官や防衛大学校出身にも友人がおり、彼らと話してみると本当にピュアな心で日本のことを考えている人が多く、また災害活動などで非常に貢献しているのはご存じのとおりです。

僕は自衛隊が悪いとかいいとかの話ではなく、憲法9条に関しては違憲だ、と言っているだけです。

ごく最近になって、国民の民意が反安保関連法案寄りの風向きだから、憲法の番人である最高裁に告訴する、という憲法学者などがいますが、そもそも自衛隊が設立されて50年以上経過している訳ですから、違憲だと考えるのであれば、50 年前に正々堂々と告訴すべきなものを今頃になって違憲だなんだかんだと言って告訴すると騒ぐのは胡散臭い気がします。

近年文化や価値観、国際情勢は急速に変わっていますので、公布より 69 年間も 同じ条文の憲法を後生大事に
持ち続けていること自体が異常であり、時代にそぐわない条文を削除したり、時代に合わせて追加したり、曖昧な文言の条文は分かりやすく書き換えたりするのは当然のことだと思います。

しかし、その憲法改正手続きは、国家の主権者たる国民による国民投票によるべきと考えます。その手続きも踏まず、議員の数にものをいわせて、強引に可決してしまったのはおかしいと考えます。

堅い、硬派な長い文章を書いてしまいましたが、また次回からは英語学習記録に戻ります。



 



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本音と建前のダブルスタンダードに悩む 2

2015年09月13日 21時07分33秒 | 一般的英語学習

先週後半は台風の余波で茨城県、特に常総市は大変なことになっています。また東京でも土曜日(9月12日)の午前6時前、かなり強い地震があり、目が覚めました。異常な気象や現象が続いています。

さて、先週の記事で、日本の会社の会議は根回しにエネルギーを注ぎ、会議自体は始めに結果ありきの報告会のようになっていて、報告会であればなにも沢山の人数が一堂に集まる意味はなく、関係者に結果報告をメールで配信すればいいだけのことだ、という趣旨のことを書きました。

しかし、まだ長幼の序や年功序列、和をもって尊しとなす日本の、特に規模の大きな会社では、上位者や年長者が大勢いるような会議で、入社間もない若手社員が積極的にたとえ上司と意見がちがっていても、積極的に発言する、という環境にありません。

若い人を責めるのではなく、若い人が積極的に発言すると、協調性がないとか、生意気だとか言われかねない空気を僕達年長者が作ってしまっているところがあります。日本のオヤジ世代はやたら威張っていて自分の地位や威厳を守ることに汲々としていますからね。

そうして若い人はだんだん本音を出さなくなってきています。(しかし、最近の国会前の若い人たちを中心とするデモなどは久々に若い人の本音が出た珍しいケースだと思います。)

また発言すれば当然自分の言ったことには責任を負わなければならないので、責任を負うことはイヤなため、発言しない若い人もいます。自由とは好き勝手にやることと同義ではなく、自由と責任は表裏一体の不可分な関係です。自由競争とか自由学習には自由はありますが、結果もまた自分で責任を負わなければなりません。だれしも好き勝手やるだけならこんな楽なことはないわけですから。

長幼の序や和をもって尊しとなす、というのは日本の伝統的な奥ゆかしい文化ではあります。

が、こと常に新しい付加価値のある製品やサービスを提供していかなければならない会社、企業においては、著しく革新とスピードを欠く結果ともなります。例えば僕が運転免許を持っていないと仮定して、20 歳代の人と、よーいドンで自動車学校に通えば、まず間違いなく僕は20歳代の人の2倍以上の時間がかかるでしょう。新しいことを掴み、吸収するスピードは、若い人が断然優れています。

会計用語で減価償却という言葉がありますが、僕達中高年は、年とともに価値が下がる中古品で、残存簿価はほとんど残っていないかもしれません。

一方伝統や文化(会社の中では企業文化や企業風土、マナー)といった、醸成に長い時間を要するものは、長く社会人を経験した中高年のほうが、一日の長があり、若い人に教えていくべきでしょう。

とりとめのないことを書いてしまいましたが、中高年は、長い時間かけなければ醸成されないことを、威張ったり、建前の権威を振りかざすのはなく、心を開いて本音で若い人に伝えていく、若い人はマナーは守りながらも、自分が感じ、よいと思う新しい、斬新なアイディアを臆せず本音で発言することが、win ー win のあり方で、会社や企業を全体で押し上げていくのではないでしょうか?

 

 

 






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本音と建前のダブルスタンダードに悩む 1

2015年09月05日 14時31分47秒 | 一般的英語学習

曇りがちで気温はさすがに真夏日とまではいきませんが、湿度が高く不快な日が続いていますね。今日は湿度は少し低いですが。

今回は僕が本音と建前に悩んでいる話です。

僕は初めて海外渡航したのは前にも書きましたが、29 歳の頃で、しかもプライベートの海外旅行ではなく、会社の仕事でです。これは当時(1980年代後半)としても遅い初渡航です。当時でも学生時代に海外旅行や留学した人は多かったからです。旅行先や留学先はアメリカが大半でした。

しかし、何故かその時から今日(もうすぐ57歳)に至るまで、約 30 年間、社内の日本人(当時から最近まで外国人を日本の会社に正社員として採用する、というのは大企業になるほど進んでいないですから。)と仕事をすることより、海外の顧客相手に仕事をすることの方が多かったです。

海外の顧客と仕事をするには、英語は最低必要条件でしたが、生来英語が苦手で、勉強自体嫌い、また当時はアメリカやイギリスがあまり好きではなかった僕は、外国人とコミュニケートするのはかろうじて出来ましたが、完全なブロークンでした。

最低必要条件すらこれでは外国人との間に誤解を生む場合もあるので、これではあかん、と英語の学習に少しは真面目に取組みだしたのは、なんと40歳代の終盤にはいったころからです。(いまでも、英語はぜんぜんあかん、という自覚と危機感があります。)

英語は全然あかん状況でしたが、海外出張や駐在も含め、海外の様々な人々や文化に触れる機会が多かったので、色々と実体験から考えさせらることが多かったです。

① まず、外国人(特に欧米人)からの信頼を得るには、自分とは何者か、自分がどういう考えや価値観を持っているのか、さらけ出さないと相手もさらけ出してくれない、ということ。自分の考えや価値観を言葉はたどたどしくでもさらけだすこと。

外国人(特に欧米人)は個人主義(利己主義と混同してとらえられがちだが、真の個人主義と利己主義とは全く違う。)的考えが強く、自分と他人とは価値観や考え方が異なっているのが当たり前だと思っているので、自分の考えと他人とがどう違っているのか、その中のどこが面白いのか、 優れているのかに興味をもち、耳を傾けます。(いわゆるオリジナリティですよね。)

② 次に、本音と建前を使いわけずに、本音で接し、相手が偉い人や逆に地位が低い人だからと言って、自分の考えや価値観、主張をその場その場で変えないこと。 人によってコロコロいうことが変われば、自分の考えに自信も信念もない、裏表のある一貫性がない、信用できないアンフェアなヤツ、と思われてしまいます。

そういう人たちと長く仕事をしているうちに、あけっぴろげに自分は何者かさらけだすこと、僕も自分の考えをしっかり持つこと、素直に自分の考えや意見を発言すること、などの癖がついてしまいました。

翻って日本(の会社)ではどうでしょうか? 例えば会議で役員や上司が意見を述べ、自分が違う意見があると、はっきり本音で発言出来るでしょうか? 僕は“癖”がついてしまっている上、年のくったオヤジですので、自分の考えが正しいと思えばはっきり発言してしまいますが。

大会社の若手の社員ほど、後でその上司に別室に呼び出されて 『 俺の仕事に反対するな。俺が嫌いなのか。』あるいは 『いいところを見せようとスタンドプレーするな。』などと理不尽なことを言われたりしないでしょうか。

かくして会議は違った意見の中でベストチョイスを決めるために集まるのが目的なのに、事前の膨大な時間を使っての役員や上司の根回し、出席者は10人いても発言するのは2~3 人だけ、という日本の会社固有の奇妙な報告会のような現象になってしまいます。報告ならば関係者一同にメールを送ればいいだけの話です。

長くなりましたので、続きは次回書きます。


 




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