今日も寒い一日ですね。
さて先日の記事からあっという間に一週間経ってしまいましたが、今日はその続きです。
前回の記事にも書きましたが、高校時代は、強いて勉める ”勉強”は拒絶反応を示し、自分の好きな世界史(と現代国語)しか得意科目がありませんでした。当時は、そして今でもそうかもしれませんが、数学(今にして思えば、数学の基礎をベースにした解答ドリル)と英語(単語と文法主体の暗記)は大の苦手でした。
主要 2 科目が不得意ですと、相対的な成績は下位になりますね。 思えば “数学”と ”英語” は学年の順位や、偏差値、はたまた入れる大学や学部や学科にまで直接的に即決してしまうので、現実を直視するのが嫌な僕は、何となく想像をかきたてる世界史や現代国語の世界に逃避していたのだろうと思います。
一浪してようやく滑り込んだ第 3 志望の大学でも、その嗜好は続きました。しかし、演劇と映画が好きで、英語劇を少し齧ったので、英語に対してはアレルギーはなくなりましたが、それでも大学の英語の成績はよくなかったです。
さて、29 歳 (1987 年だったと記憶しています。)に中東 10 か国へ出張に行くことになりましたが、当時は、そして今も中東は日本人にとって危険地帯。しかも、僕はそれまで海外に行ったことがなかったので、パスポートさえ持っていない始末です。
当時はインターネットなどなかったので、先輩社員に訊いて、ひいこら外務省の旅券課までいって、パスポートを手に入れ、そこから中東諸国の入国ビザを日本から要請するのですが、これがまた大変です。当時の中東諸国は、バーレーンなどを除き、ビジネス上の現地のスポンサーが身元を保証した上での商用ビザでしか入国出来ませんでした。特にイスラム宗主国のサウジアラビアの入国ビザの取得は厳しく、申請から在日サウジアラビア大使館でビザを取得するまで、3 ヶ月ぐらいかかったと思います。
当時は、日本人は、中東でアラブにシンパシーがあるにせよ、ないにせよ過激派のイメージがあり、中東諸国は日本人にとって警戒すべき印象を持たれていたことと、イスラム諸国では、平日でもビザ発給の役所は午後 3 時までしか仕事をせず、断食月のラマダンに入ると、ほとんど仕事すらしなくなるので、ビザ発給に時間がかかったのだと思います。もちろん一般の観光客には、観光ビザはおりません。
また当時の航空券は、冊子のようになった航空券をチェックインカウンターで一枚ずつちぎって搭乗券に交換する方式で (随分後で行ったロシアでは”来た者順の自由席”で搭乗券すらありませんでしたが。) 10 か国回るとなると、ちょっとした束のようになります。この束について、僕は何をするのかもわからず、先輩社員に、『 この束をどうすれば、飛行機に乗れるようになるんですか?』と当たり前のようなことを尋ねたりしました。
よくチェックインカウンターでは、間違えて 3 枚分ぐらいちぎってしまうことがありますので、係員のちぎり方には注意して観ておかなければなりません。
そんなこんなで、パスポートの取得から、それぞれの訪問国の入国ビザの手配、航空券とトラベラーズ・チェック (現地ではクレジットカードなどはまだ普及していなかった。)の準備などで、出張準備に 4ヶ月ほどかかったと思います。(それぞれの国の在日大使館に、パスポートを提出すると、アラビア語の切手を巨大にしたようなビザをべったり貼るか、でかいスタンプを押してパスポートを返してくれます。(パスポートに張りつけられる当時のビザの典型的な写真は↓。個人情報部分は読めなくしていますが、当時のUAEの入国ビザです。今はUAEは国際金融センター化していますので、もっと楽に入国出来ます。)大体それぞれの大使館にパスポートを提出して、ビザを付けて返してくれるまで、3 日~ 4 日かかった。パスポートは一つの国の大使館に提出中は、他の国の大使館には提出出来ないので、非常に効率が悪い。)
日本から出国するときは、当時は成田空港は第 2 ターミナルがなく、第 1 ターミナルだけでした。また、羽田空港は、国内線だけでした。
出張前だけの準備がかなり煩雑でしたが、ようやく日本で出来る準備はなんとかやり終え、出張前夜は、まだ見たこともない国への期待と、それと同じぐらいの不安で、眠れぬ夜を過ごしました。