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逆襲するさらりーまん

ーやっとこさ英検1級、通訳案内士試験合格。しかし英語の道は長い。基本的にやり直し英語+その時々に思うことなど。-

ブラジル出張(続編)

2016年04月29日 23時43分10秒 | 旅行記

前回ブラジル出張の記事の続きを少し書きます。

4月16日に日本を出発して、ニューヨーク JFK空港まで飛行機で約13時間、JFK空港で4時間トランジットでまた飛行機でサンパウロまで10時間、合計27時間の移動(しかもエコノミーで!)は海外旅行ズレしている僕でも相当キツかった。

行く前は、JFK空港のトランジットは2時間もあれば十分と思っていましたが、昔はトランジットの場合は出国のパスポートコントロールも荷物検査もなく、搭乗口を移動する程度の簡単なものでしたが、昨今の一連のテロ騒動で、出国のパスポートコントロールはもちろん、その前にCBP(Customs and Border Protection)の自動認証機で指紋とパスポートをスキャンし、顔写真を取り、その情報のプリントアウトを持って、またパスポートコントロールの列に並ばなければなりません。

JFK空港の夜、しかも土曜日の夜に到着したので、アジアやヨーロッパからの到着便が多く、自動認証機の前は多くの人だかりで、プリントアウトを出すまでに、2時間ぐらいかかりました。

それからパスポートコントロールの列に並び、カルーセルでスーツケースを受け取った後、こんどはスーツケースの検査、それを経てようやく出国出来ます。要するにアメリカ入国であろうと他の国へのトランジットであろうと、一旦アメリカに足を踏み入れたら、威信をかけてテロは逃さないぞ、という構えのようです。

15年前にブラジルに出張した時より、よほど不便になっています。
僕は人やモノや金の流れが自由に行き来出来るようになればなるほど、経済や文化は活性化、発展していくと考えています。(ちょうど戦国時代の織田信長の楽市・楽座のように。)

欧州ではEUの設立の意義は欧州内で人やモノや金の流れを自由化することで、個々の国ではなく、欧州全体を活性化・発展させようということであったはずです。

賛否両論ありますが、最近ISISとシリア等からの難民に起因して、EU加盟国間のボーダーが高くなりつつある印象を受けます。(ベルギー・フランス間のボーダーが甘いから昨年11月のパリの同時多発テロが発生したんだ、また、今年の3月のブリュッセルでのテロが発生したんだ、という考えです。)

米国は15年前の2001年9月1日の国家のセキュリティの威信を根底からあざ笑うかのような同時多発テロ以来、ボーダーのセキュリティを強化してきましたが、それに加えて今回のパリ、ブリュッセルのテロでのさらなるセキュリティの強化(というより意地になっているような過剰さ)を体感してみると、なにか世界はボーダレスの発展とは逆の自国の国益だけに向かっているような気がして、残念です。

ただ、ほとんど同時にJFKに到着して、同じようにセキュリティー・チェックに数時間並んだ、エール・フランスでパリから来た人達は、パリのテロの経験からか、少し話してみましたが、全く文句も言わずに粛々と長い列に並んでいました。

サンパウロについてからの大統領の下院の弾劾決議に伴うデモなどの様子は前回書いたとおりです。

4月18日、19日はサンパウロの関係会社と打ち合わせし、20日は、サンパウロからブラジル南部にあるポルト・アレグレに行きました。ここも15年ほど前に行ったことがありますが、あまり記憶に残っていません。

ブラジル最南端にある州のリオ・グランデ・ド・スール州の州都で、人口140万人、ポルト・アレグレはポルトガル語で「陽気な港」と言う意味で、港で栄えた都市です。

ブラジルもここまで南下すると熱帯のような暑さはなく、外観は写真のように美しい港湾都市です。またブラジルというとポルトガルからの移民が多いと思われがちですが、この都市はドイツやイタリヤからの移民が多く、ほとんどヨーロッパ的です。

しかし、ブラジルの都市はサンパウロもリオ・デ・ジャネイロも遠くから見ると皆非常に美しいですが、この都市もまた、裏通りに入ると怖いところが沢山ありますので気は抜けません。

20日はその日のうちにサンパウロに戻り、翌日21日夜にサンパウロからロサンジェルスにまで飛行機で13時間かけて飛び、ロサンジェルス空港で4時間30分のトランジットの間にまたいやになるぐらいのセキュリティ・チェックの後、一旦出国して、また入国審査して、ロスアンジェルスから成田まで飛行機で12時間かけてようやく日本に戻ってきました。日付変更線を越えて一日時が進むので、成田に到着したのは23日の夕方でした。

僕の数々の海外出張の中で、時差と移動時間からみて、最も厳しい出張でした。

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ブラジル出張から帰国

2016年04月24日 20時46分29秒 | 旅行記

2日前の土曜日の夜、ブラジルの出張から帰国しました。

ブラジルとの時差は12時間、日本とは真逆で分かりやすいのですが、さすがに疲れて日曜日は午後2時頃まで寝ていました。午後2時とは言っても、ブラジルでは午前2時です。(午後2時頃起きなくても、いくらでも眠れるぐらい眠い。)今この記事を書いている午後11時頃からだんだん頭が冴えてきます。

出張中の仕事が溜まっているので、今日は会社に行きましたが、やはり午後1~2時は眠くて仕方がなかった。

ブラジルには1999年~2000年頃に7回行ったことがありますが、当時に比べて時差が身体にこたえます。(大体人間の時差調整能力はもちろん個人差もありますが、1日1時間半だと言われています。若いころは2日あれば時差ボケを解消できたのですが、最近はきついですね。)

前回に行ったころと比べ、パッと見はビルが増え、街ゆく車もボコボコの車ではなく、きれいになっていましたが、国家の状況としてはずっと悪くなっています。

2000年頃は経済も上向きで、当時の成長市場のBRICSの一国として、成長していくエネルギーを感じましたが、2015年頃からGDPの伸びは減速、2016年はマイナス成長になると言われています。

低成長の最中で、現職大統領のルセフ大統領(ブラジル初の女性大統領)、あるいはその前職のルーラ・ダ・シルバ大統領の汚職が取り立たされています。(ただし、本当に汚職にかかわったかどうかは、裁判を経なければわかりませんが。)

その最中、僕が今回の出張でサンパウロに到着した4月17日にはブラジル下院(513人が定数だったと思う。)の弾劾決議の最中で、ホテルのすぐそばでも13万人規模の大統領辞任要求派の大規模なデモ集会があり、(3月13日にも全ブラジルで200万人規模のさらに大きなデモがあったと聞きます。)群衆の中には大統領擁護派もおり、小競り合いを繰り返して、軍も出動し、夜通し発砲やら上空を旋回するヘリコプターやらでうるさくて眠れませんでした。(とはいえ、どうせ日本からの12時間の時差で眠れませんでしたが。)

結局下院の定数の3分の2以上の弾劾賛成が決議され、次は上院に移り上院の定数81の2分の1の弾劾賛成が決議されるとブラジル連邦最高裁判所による審査が始まり、審査期間中は大統領は停職となり、最大180日間副大統領が大統領を代行します。審査を経て再度上院の決議が行われ、今度は上院の3分の2以上(すなわち54以上)の弾劾賛成があると、大統領は罷免されます。

ちょうどリオ・オリンピックの最中に連邦裁判所による審査、あるいは大統領の罷免が行われる可能性があり、ブラジル国内はどこもそのニュースばかりでした。
海外出張も何度も行っていると、こうしたその国の歴史的出来事に遭遇することもあります。

しかし、悪い出来事なので、次は是非良い出来事に出合いたいものです。

僕が日本を離れている間にも、熊本の地震の被害に会われた方の数は増え続け、日系人が頑張っているため親日家の多いブラジルの方々からもずいぶん心配の言葉を頂きました。

僕からも熊本地方の皆さんに、頑張って、というだけでは大変失礼ではあるのは十分承知してはおりますが、 どうぞ気持ちを強く持って頑張って下さい、と申し上げます。

 




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シドニー出張報告

2016年03月12日 18時32分43秒 | 旅行記

3月6日からシドニーに出張に行っていて、昨日帰国しました。

南半球のシドニーは、まだ夏真っ盛りで、出張期間中は毎日30℃、天気も毎日晴れでしたが、東京へ帰ると寒の戻りか、かなり寒いので閉口しました。

シドニーの中心街のリバープールストリートにあるラジソンというホテルに投宿し、毎日シドニーの関係会社に通っていました。

前回シドニーに来たのは、2000年のオリンピック前で、実に16年振りです。以前は中心部でも高層ビルはあまりなかったのですが、今はあちこちに高層ビルが立ち並び、かなり景観は変わっていました。が、昔ながらの市庁舎の建物などはそのままでした。

事前にダウントン・アビーやBBC World Service などを聴いて耳慣らししていたので、会議や仕事での英語はまったく支障ありませんでした。

しかし、オーストラリア人どうしが話し始めると、やはり聴き取れない部分は少しあります。

ほとんどずっと関係会社との会議に費やしましたが、3月7日の午後だけは少し時間が空いたので、懐かしいシドニーの街を歩き、フェリーに乗って対岸(ノースシドニー)まで行ってみました。

シドニーは深い湾になっていて、南側と北側に分かれます。南と北とをつなぐのはハーバーブリッジとトンネルです。

大まかにいって、南側は高層ビルの立ち並ぶオフィス街と港、北側は住宅地です。

僕が行った日には港にたまたまクイーンビクトリア2世号が停泊中でした。

対岸にはフェリーに乗って渡ります。(もちろん車でハーバーブリッジやトンネルをくぐっても行けますが、フェリーが最も景色が良い。)

南側の突端に以前と同じように、オペラハウスがありました。

南側のオペラハウスとオフィス街の風景は、上の写真のイメージです。

シドニー湾は周囲に工場がないため、きれいで、大都市でこれほど海の水辺とオフィス街が近い街は世界でもあまりない、と思います。

一方北側は、ゆったりした住宅街で、僕は駐在期間中、北側に住んでいました。

北側から観るオペラハウスや高層ビルの夜景は絶景でしたが、今回は夜まで自由になる時間はありませんでした。

北側でフェリーを降りて、昔住んでいた付近を歩きまわりましたが、とにかく暑かったです。

16年前は、A$ 20 あれば、結構おいしい夕食が食べれたのですが、今は最低A$ 50 ~ 60 します。(A$は85円ぐらい。)

また、前は街を走る車もフォードやGMのでかくておんぼろな車が多かったですが、今はベンツやBMWやアウディ、レクサスなどが沢山走っています。ここ数年のオーストラリアの好景気を反映しています。

しかし、オージー達の人の良さは相変わらずで、僕にとっては第2の故郷のようなところです。

中々面白い出張旅行でした。

 

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シドニー出張

2016年03月05日 22時25分51秒 | 旅行記

暖かい週末ですね。

さて、3月6日から3月11日まで、オーストラリアのシドニーに出張することになりました。

シドニーには、1993年から1998年まで駐在していて、第二の故郷とも呼べる場所です。また、帰国してからも、2000年のオリンピック前の3月に遊びで一度訪れたことがあります。

それにしても16年振りの訪問で、楽しみにしています。

シドニーといえば、なんといってもオペラハウスとハーバーブリッジで、毎朝飽きるほと観ていましたが、今も変わらないと思います。

ただ、風の噂で、ダーリング・ハーバーと呼ばれる湾岸エリアは、かなり高層ビルが立ち並び、景観が変わったとのことです。

それに、独特の英語。

最近 BBC の World Service を聴いて、イギリス英語に耳を慣らしていますが、
上手く聴き取れるかどうか。

シドニーは現在まだ夏で、気温も30℃を超えていますので日本と真逆です。

帰国したら、またシドニーの最新状況をご報告します。 

 

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インド出張とリリー・ジェームズ

2015年07月17日 23時24分54秒 | 旅行記

昨日、台風がひどくなる前に、インド出張から日本に帰ってきました。今日はもちろん会社に出社しました。

ニューデリーに行きましたが、人々の喧騒も、車線なんかお構いなしの大渋滞も相変わらずです。またとにかく暑い。今は雨季なので、蒸し暑い上に時々激しいスコールが降ります。インドの雨季は日本の梅雨と違い、スコールがざっと降ってすぐ止みます。しかし、側溝などのインフラが整備されていないので、道路は川のように水浸しになります。

さて、話は変わりますが、海外出張の楽しみの一つは、日本と違った風景や文化に触れるのもさることながら、長時間の移動の飛行機の中で、映画を存分に観れることです。

昔と違って、今は機内装備も充実し、50 本ほどの映画がよりどりみどりで観れます。昔は10 本ほどの映画が、しかも始まる時間が決まっていて、大抵途中からしか観れなかったんですが、今では巻き戻しも自由自在です。

往きの飛行機の中では、出張先で使う資料を読んだりして時間がありませんでしたが、帰りはディズニーの 『 シンデレラ 』を英語で観ました。

前にも書きましたが、ディズニーの映画は、子供から大人まで万人向けに作られているので、汚いスラングもなく、英語が非常にきれいで、英語学習には最適です。

シンデレラ役のリリー・ジェームズが非常によかったですね。

彼女はロンドンのギルドホール音楽演劇学校を出た、どちらかと言うと舞台女優です。もともとシンデレラ役は、このブログでも書いた、エマ・ワトソンが演じる予定でしたが、契約が折り合わず、オーディションで彼女が選ばれました。

最初は意地悪な義姉の役を得るつもりで、オーディションにもピンクのド派手な衣装で臨んだそうですが、キャスティング・ディレクターの目にとまり、シンデレラ役を得ることになりました。

明るくて、芯が強く、しかも品があり、シンデレラ役にはぴったりです。国連のスピーチの時のエマ・ワトソンも凛として、素敵でしたが。。。

また、彼女は役柄を徹底的に追及する 『カメレオン女優』 と言われており、アスリートを演じるときには、トレーニングに励んで福島千里並みの腹筋の割れ目を作ったり、『ダウントン・アビー』に出ていた時と、『シンデレラ』とはかなりイメージが違いますね。『シンデレラ』の撮影時には、きついウエストのドレスが入るように、昼食は抜きだったとか。そうい役者根性も僕は好きですね。

ちなみに継母を演じていた、オスカー女優のケイト・ブランシェットも意地悪さがにじみ出ていてよかったですよ。

リリー・ジェームズは若手の中では最もオスカーに近い女優だと思いました。舞台出身だけあって、発声もきれいですしね。

何かインド出張の話より、映画の話になってしまいました。

 

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またインド出張

2015年07月11日 22時22分13秒 | 旅行記

明日から 16 日まで、またインドに出張します。

2月に行った時は乾季で快適でしたが、今は雨期で蒸し暑い。インドで一番暑いのは 5 月ですが、それでも今も暑い。

日本も暑くなってきたのでちょうどいいのですが。

インドが苦手な人も多いですが、僕はインド料理が好きなのと、あの混沌とした雲霞のように満ち溢れた人のエネルギーが充満したインドが嫌いではありません。

しかし、こういう気候の激しい地域は、中高年の僕ではなくて、もっと若い人に出張に行ってもらいたいのですが。。。

元気づけに、ドリカムの 『さあ、鐘をならせ 』 や 『 何度でも 』 を録音して聴きながらインドに向かいます。

ドリカムとは同世代ですが、もう吉田美和さんも 50 才です。しかし、相変わらずパワフルなので、元気をもらっています。

インド人の英語は、しばらくなれるまで時間がかかりますが、気合いで乗り切ります。

 

 

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京都の紅葉と大混雑 その 1

2014年11月25日 21時54分43秒 | 旅行記

11 22 日から 24 日の 3 連休のうち、22 日~ 23 日と大阪と京都に行ってきました。
 

22 日は個人的な用事で大阪の税理士さんとの打ち合わせで、大阪で一泊し、翌 23日に京都にある亡き父の墓参りと京都の紅葉見物に行きました。
 

僕は大阪で生まれ、育ったので(会社に入ってからはずっと東京と海外駐在ですが)日帰りで行ける京都にも今までに 50 回以上は行っています。
 

今回も馴れた街、ということでぷらっと京都に行ったのですが、これがすさまじい渋滞と人混みにびっくりしました。

Photo

いかに紅葉シーズンの3連休の中日とはいえ、これほどの混みようには遭遇したことはありません。

 

京都郊外の桂にある父の墓をお参りしたあと、京都市街に向かおうとしました。かなりな距離があるので、いつも

は路線バスを使うのですが、路線バスは幹線道路しか走らず、幹線道路は数珠つなぎの渋滞が延々とつながっているので早々に路線バスに乗るのはあきらめ、京都に住んでいて、京都の裏道に詳しそうな運転手さんのタクシーを物色しました。
 

ちなみに僕はその人の話す言葉使いで、京都の人か、大阪の人か、神戸の人か区別することが出来ます。関東の人が聞けばみんな同じ関西弁に聞こえるかもしれませんが。
 

京都に住んでいることが明らかな運転手さんのタクシーを捕まえ、桂→京都駅(七条口)→南禅寺 まで行ってくれるよう交渉しました。なぜ途中で京都駅に寄るのかというと、昨日の大阪での税理士とのミーティングのために、重い書類などの荷物を抱えており、京都駅にたくさんあるコインロッカーに預けて身軽になって京都を歩き、帰りは夕方に京都駅発の新幹線なので、コインロッカーに預けた荷物をピックアップして帰ろう、と考えたからです。
 

上手い具合に僕の選んだタクシーの運転手さんは京都の裏道を非常によく知っており、抜け道を知っているだけでなく、どの抜け道がどの時間帯で混むかまでよく知っているので、ほとんど渋滞に巻き込まれることもなく、桂から京都駅(七条口)に着きました。
 

タクシーをメーターを倒して待っていてもらい、京都駅に何千とあるコインロッカーの空を探しましたが、なんと一つもありません。中にはロッカーの空を待つ行列まで出来ている始末です。
 

そこで、あまりお勧めは出来ませんが、京都駅七条口には近鉄京都駅ホテルがあり、その中にずんずんと入って行って今しがたチェックアウトしたようなふりをして、フロントで『 これから京都見物したいんだけれど、荷物を預かってもらえませんか?』と尋ねると、『 当ホテルでは、コインロッカーをご用意しております。』ということで、何かトークンのようなものをくれました。よせばいいのに、『 このトークンを使えばタダですよね。』と尋ねると、『さようでございます。』との答え。
 

ホテル内のコインロッカールームは空ばかりのガラガラでした。

 

ー長くなりましたので、続きは次回の記事で書きます。ー 

 

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食わず嫌いを変えられないか ? その 9

2013年04月21日 14時09分26秒 | 旅行記

今日は四月の下旬にしては、恐ろしく寒い日で、東京も最高気温が 8 ℃ ぐらいまでしか上がりません。家でブラブラしています。

さて、前回の続き、キンキラキンのモニュメントで飾られたサウジアラビアを後にして、オマーンに行きました。

アラビア半島は全て砂漠だと思っている人も多いと思いますが、オマーンはアラビア半島のどん詰まりで、地層が複雑で、山が多いです。

Photo 海と山のコントラストが中々美しい国です。
ここも石油で儲けていますが、ホルムズ海峡があるので、アメリカ軍が駐留していて、イスラム諸国の中では、もっとも西洋的と言えます。

ホテルも美しい建物の立派なものが沢山あります。ここではあまり苦労せずに過ごせました。街もこじんまりとして、出歩いても平気です。

サッカーの W カップのアジア予選で日本にもオマーンの名が知られるようになりましたが、基本的に親日家が多いようです。

幾つかの国の記事は省略しましたが、中東の長い旅もそろそろ終わりに近づいてきました。

気がつけば日本を出て 26 日が経過していました。

時代のせいもありますが、こんなに長く出張させてくれた会社には少し感謝します。

20 歳代としては日本と全く異なった世界を見たおかげで、人種や宗教に対する偏見が全く無くなりました。

一方、中東諸国は元イギリス領が多いため、かなり英語が通じます。自分のつたない英語でも、かなり情報を得ることが出来たので、この旅を機会に、食わず嫌いだった英語も少しは勉強するようになりました。

やはり違う文化の人々とコミュニケート出来るのが英語の魅力の端緒でしょう。

その後、東南アジア、中南米、オセアニア、欧州と駆け回りましたが、この時の中東の旅が最も印象的でした。

東南アジアや中南米も面白い話が沢山ありますので、また機会があれば記事にします。

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食わず嫌いを変えられないか? その 8

2013年04月14日 15時23分57秒 | 旅行記

暖かい日や寒い日が繰り返し、少々風邪気味ですが、今日は暖かです。

さて、前回の記事の続き、死海でぽっかり浮かんだあとは、サウジアラビアに行きました。

ヨルダンのアンマンからサウジアラビアのペルシャ湾岸沿いのジッダに入りましたが、ものすごく蒸し暑い。一旦入国すればそこは別世界。女性はアバカ(写真 ↓ )に身を包み、目以外は外に曝しません。

アバカに身を包まずに外出しようものならば、普通の警察とは違う勧善懲悪委員会の人(宗教警察のようなもの)が寄ってきて、すぐに勧告されます。

Saudi_arabia__women_outraged
男性はトーブという白いワンピースと頭巾を被るのですが、頭巾は白と赤のチェックが流行のようです。(アラビアのロレンスのイメージ)

僕も、トーブを一式買わされ、サウジアラビアに居る間は身につけていました。

男性のトーブの方は実用的で、暑い中東では快適ですし、頭巾も砂嵐から鼻や口を守るために発達してきたものです。

翌日は朝の 5 時頃、ホテルの近くのモスクから流れるコーランの祈りで目を覚まさせられました。

何といってもサウジアラビアは、イスラムの宗主国なので、ほとんどの人が敬虔なイスラム教徒で、メッカに向いて一日に 5 回の礼拝は欠かせません。これは、国王とて同じです。イスラム教では、信者は国王でも平民でも差別はありません。

ここでも、代理店の社長と商談しましたが、祈りの時間になると、『 ちょっと失礼。』といって、礼拝室で祈りをささげていました。ただ、イスラム教徒ではない日本人は決して祈りのまねをしない方がよいです。アラーを侮辱したと受け取られかねませんから。

王様が宗教(の一番の信者)と政治の長を兼ねる国ですから、いまだに裁判はコーランの教えに則って行われます。金曜日がイスラムの休日ですが、金曜日にはいまだに公開処刑も行われています。

暑いジッダから内陸の首都リヤドに飛びましたが、サウジアラビア航空では、離陸の前に、『 飛行の無事をアラーに祈りましょう。』と、コーランの一節が唱和されます。

夜間飛行で真っ暗な砂漠の中から、突如煌々とした照明に輝く宝石のようなリヤドが見えてきた時の感動は今でも忘れません。

リヤドは空港も巨大で、街の交差点には船や動物を象った意味不明瞭な巨大なオブジェが沢山あります。なんでも、石油で儲けた金の使い道に困って、オブジェを作ったとのことです。

長くなりましたので、続きは次回の記事に書きます。

 

 

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食わず嫌いを変えられないか ? その 7

2013年04月07日 21時35分11秒 | 旅行記

春の嵐で、桜もすっかり散ってしまいましたね。

さて、3 回前の記事の続きです。

エジプトからクウェートに入りましたが、あまり面白いものはなく、次にヨルダンの首都アンマンに行きました。

当時は、そして今もヨルダンにはパレスチナ難民が多く、まず驚いたのは、10 万人単位で難民生活を送っている人々のおびただしいテントの数です。

地平線の果てまでテントの密集が続いています。

中東では非常に豊かなクウェートから来ると、その落差は衝撃的です。クウェートでは有り余る石油で、税金はほとんどないに等しく、学校も医療もタダですが、すぐ近くのヨルダンでは、明日の食糧にも事欠く何十万の人々がテント生活を送っている。。。つくづく紛争は不幸しか生まないと感じました。

ヨルダンの代理店とも商談し、その後 車で『 死海 』へ行こう、ということになりました。死海へ行く途中は崖道を下っていく感じです。

途中で、世界標高最低地点を通過しました。標識が立っていて、標高マイナス 380 メートル位だったと記憶しています。 (そのあと、死海の地盤沈下が進み、現在は死海の水面がマイナス 418 メートルの世界標高最低地点です。)

標高が上がると涼しくなるのはご存じのとおりですが、逆に標高をマイナスに下っていくとだんだん暑くなってきます。Images4 

死海にたどり着くと、プレハブの脱衣場のようなものが立っています。死海の対岸はイスラエルで、ホテルと思しきものが林立しています。イスラエル側は死海は観光地で、それなりに施設も整っていますが、ヨルダン側は観光地ではありませんでした。(最近は観光地化が進んでいると聞きます。)

死海に入って泳ごうというので、こういうシュチュエーションも想定して海パンとゴーグルは持ってきていたので、着替えて飛び込むと、すぐにプカリと浮かび上がります。

よく死海のイメージとして水面にぽっかり浮かんで新聞を読んでいる写真が出てきますが、その通りです。僕もポッカリ浮かんで新聞をよみました。(当時の写真はどこかへ行ってしまいましたが。)

試しに潜ってみると、透明度はありますが、魚や藻などの生物は全く見当たりません。通常の海は塩分濃度が 3 %ですが、死海はその 10 倍の 30 %もあり、生物が生息出来ない環境で、だから“死海”というのだそうです。

川は、ヨハネがキリストに洗礼を授けたヨルダン川が流れ込んでいるだけで、中東の暑さで、ちょうど鍋で海水を煮て塩を作るのと同じ仕組みで、どんどんと塩分濃度が高くなってきたのだそうです。

死海から上がると、口元も耳の穴も鼻の穴も塩だらけで、落とすのに苦労しました。

何か海外出張というより、中東名所巡りのような旅になってきましたが、続きはまた次回書きます。

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