活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

不昧因果3

2017年02月18日 | 法理

そもそも人々の境遇には順あり、逆あり、富貴あり、貧賤あり、

而してすべての境遇は而して偶然のものではありません。

「必然」なのです。

 

必ずや依って来る真理があるのです。

これを「不昧因果(ふまいいんが)」といいます。

 

この因あればこの果あり、この果は必ずこの因によるのです。

故に偉人は境遇に安住して順逆に心を苦しめないでいられる

のです。

 

直ちに境遇によって因果を證明し、真理を説法する者として

常に綽綽として余裕があるのです。

 

おシャカ様にも悩みがあったのです。

提婆にほとんど殺されようとしたことがあったのです。

九十日間馬と生活を共にしたことがあったのです。

 

史実に拠れば、おシャカ様は八十歳で亡くなられましたが

おシャカ様の亡くなられたことを「涅槃(ねはん)」といいます。

 

「涅槃」とは「円寂(えんじゃく)」といい、大成功という意味です。

おシャカ様は「死」によってこれを「證明」しました。

死すべきに死ぬということは「大成功」なのです。

 

おシャカ様は二月十五日、即ち花盛りに亡くなられましたが、

これによって「大成功」を私たち衆生に「證明」してくれた

のです。

 

古人は「仏祖の生死を見るは春の百花に於けるが如し」

といっています。

だから「涅槃」なのです。

 

 


不昧因果2

2017年02月17日 | 法理

私たち衆生は、ものの存在を先に認めて、神様や仏様に

お願いしたりすることが「宗教」だと考えがちです。 

 

しかし、21世紀になって、今までの信仰ということでは

埒が明かなくなってきました。

 

「神様を信じたのに、仏様を信じたのに」と、自分の

信仰するものに裏切られるような状態になってきました。

 

「仏教」はどうかというと、「実相は無相なり」存在は

しているけれども、実はその存在というのはないんだ

というわけです。

 

考えることが習慣になっている人たちには、「在るものがない」

という事は、考えられないものです。


そういうところから「仏教」というのは不思議な教えだな

と興味を持たれ「仏教を勉強してみようか」という自分の

今までの「宗教」から「仏教」のほうに入って来られる人

(国内外を含めて)も多く見受けられるようになりました。


不昧因果1

2017年02月16日 | 法理

ものに善悪があるわけではありません。

上下、平等、差別(しゃべつ)というものは、自分以外の

相手にある訳ではなく、皆、私の側に「ものを見る立場」というものが

あって、本心を昧(くら)ましているわけです。

 

「不昧いんが(ふまいいんが)」とは、もともと昧ますものは

何もないのにどうしても二元論という相対的なものの見方で

こちらに二つの見方があるということに気が付かないで、

相手にそういうものが備わっているかのごとくに思うものです。


そういう「思惑」が全部邪魔をしているという意味です。

一つのものですから、どうすることも出来ないのです。

 

ですから指導者は、「そのままにしておきなさい、手を付けたら

混乱が増すばかりですよ」というのです。

 

だから、ものというものは、分かれていながら一つに成っている

ことを知(識)るということが大切です。

 

これから、「一つに成ろう」とするのではありません。

これから、「一つに成る」と考えて坐ることは、「習学」

ということになります。

 

これは順逆ともに改めなければならないところです。

物事が順調に運んで満足をしていても、不満足な状態であろうとも

自分の側に比較するものを持って「損はよくないことだ、得は

よいことだ」とか、「物事が順調に運んでいる時はいいけれども、

逆境はよくないことだ」という考えを起こして、自分自身で喜んだり

苦しんだりしてしまいますが、もともと「人」の考えが毛筋ほども

入らないようになっている元々の世界があるということです。

 

そのことを私たち衆生は知(識)らなければなりません。


因果を考える2

2017年02月15日 | 法理

「宇宙」 は働きです。

働きが出て来て、千差万別になってきたものが

「法」 です。

 

そこに小さなものが生まれたのではありません。

「宇宙」 がきて小波となって押し上がった時、

波というものが別に出来たのではありません。


波はいわゆる大海が風の縁に触れて、ただ高くなった

だけです。

出来たのではありません。


波は無くなった処が何処へも行きはしません。

水は少しも殖えもしなければ、減りもしないのです。

「不生不滅」 です。

 

宇宙の因縁生によって生じ、因縁滅によって滅するのです。

生ずるのは因縁の生ずるにして、実体のあるものでは

ありません。

 

滅するのは因縁の滅するにして、実体があるのでは

ありません。

 

実体がなければ 「宇宙」 です。

みな不滅なのです。

 

生まれては生まれたままに 「宇宙」 を占領しているのです。

不生はいつまでも不滅です。

「不増不減」 です。

 

死んだら死んだままに 「宇宙」 を占領しているのです。

波の出来るのは世界の水が高くなったので、

波のなくなったのは世界の水に帰するのです。

 

「如」 という言葉がありますが何時までも変わらないのが

「如」 の真意です。

 

水なるものは、依然として存在しているのです。

「似たり」 という言葉の真意は実体がないことです。

これは 「不滅」 です。

 

滅して大海に帰するのです。

滅して 「宇宙」 に帰するのです。

 

「宇宙に帰する」 というと、何だか帰する処があることを

認めるようですが、元来帰する処はないのです。

 

そのものが 「宇宙」 です。

帰する処が別にあるのではありません。

始めよりすっかり 「宇宙」 を我々の全自己としているのです。

 


因果を考える1

2017年02月14日 | 法理

この因あれば、この果がきっとあるのです。

我々はどうしてこういうものになったのか、

必ずその因って来る処があるのです。

 

各々にその因があるのです。

そしてその間に 「宇宙」 がみな来ているのです。


「縁」 というものは、「宇宙」 です。

宇宙と共に因と縁と合して、この結果が生じているのです。

 

私たち衆生は何処から来たのか。

ここから来たのです。

 

ここから来たというのは結果です。

結果には必ず因があるのです。

 

因というものは、しまってあるものではありません。

因、そのものが結果となってきているのです。

 

「因が結果」 と名を変えて来ているだけなのです。

結果を見たら因は分かります。

 

そこで本当に因果が分かったならば、こういう因果を

妨害することは出来るものではありません。

 

何故因果を 「撥無(はつむ) 〈払い除きなくする〉」 するか

というと、彼方の相手を認めるからです。

 

道歌に、

「何者がもっとも苦し、ものを隔てる最も苦し」

と。

 

宇宙は一つものです。

この結果については宇宙総がかりの縁がなければ

果は出来ないのです。

 

宇宙総がかりで太陽を始め、所在天体、所在地球上の

事象が総合して、始めて我々の結果は出来ているのです。

 

それが分からないから、何をやってもいいという、

このことを聞き損ねるとそうなるのです。

 

その本来の本性に徹すれば悪いことは出来ないという

ことを見てとらなければなりません。


因縁生法(いんねんしょうほう)4

2017年02月13日 | 法理

「其の人」 に成れば、他人から叩かれたとしても

別に怒らなくてもよい人になります。

 

何故かといえば、日の照らない時には寒いし、

日が当たれば暖かいのです。

ただそのことと、変わりないのです。

 

叩かれたら、「ただ痛いのが痛かっただけ」 で

外に問題はないのです。

 

誰でも否定出来ない 「一番本当の事実(今の事実)」 です。

ところが、後になってから 「あの野郎殴りやがった」 と

考えるのです。

 

「その考え」 というものは、どういうことかというと

「事実を観念で捉えた」 のです。

人間(にんげん)の観念の上に事実を移しているのです。

 

別の言葉で言えば、「事実から離れて、観念で夢を見ている」

のです。

 

人間が 「錯覚」 を起こして、今、現に悩まされているのです。

 

そういうことを反省させて、「本当の人(其の人)」 に成さしめる

という 「道」 が 「おシャカ様の教え」 なのです。


因縁生法(いんねんしょうほう)3

2017年02月12日 | 法理

「水は方円の器(うつわ)に随う」

というお示しがあります。

 

本来の意味は、人が水に成って器を自在にする

ということです。

水は方円の器に変わりながら、器を「自由」にするという

意味なのです。

 

「此の物(自分自身)」 は、元来水に成っているものですから

どんな器に入ろうが、直にそれに入ってそれ相応に、それを

取り扱いながら、それに少しも縛られていないのです。

時が過ぎれば何処へでも出て行くのです。

 

別の言葉で言えば、「縁」 に随って自由に転々自在に

動いて行くことが出来るのです。

これが 「因縁の法」 です。

 

事実、水と同様に今の私たち衆生の必然のあり方なのです。

必ずこの生活(活かして生きる)しかないのです。

 

これがどうしようもない 「今の事実」 です。

如何思っても、それしかないのです。

 

こういう素晴らしい自分を本当に知(識)って頂きたいと

思います。

 

これは私たち衆生が何処にいても、どういう世界で

生活(活動)するにしても、こういう 「基本」 を知(識)って

いれば楽になるのです。

 

「其の人」 に成っていただきたいと思います。


因縁生法(いんねんしょうほう)2

2017年02月11日 | 法理

人間(にんげん)の考え方を思い切って手放せば

「自分の真相(因縁によって、ただ一々が活動する

ように出来ている)」 が分かるのです。

 

もう少し説明を加えますと、仏教では

「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」 で 「意(心)」 を、それに対して、

「六境(色・声・香・味・触・法〈しきしょうこうみそくほう〉」 で

「法」 を対称として示しています。

 

「意(心)」 というのは、どういうことかというと、どうもしないのに、

どうも思わないのに縁に触れれば(向かえば)自然(じねん)に

知らず識らずに動くように出来ているのです。

 

それが 「法」 なのです。

それが現在の私たち衆生の姿なのです。


他へ尋ねて行くとか行かないとかいってみたところで

どうしようもないように出来ているのです。

 

「自分の真相」 とはそういう絶対性なのです。

このことはあまりにも明瞭(簡単)過ぎるものなので

多くの人は信じられないものなのです。

 

それでとかく他を追いかけて(求めて)いくようになるのです。

 

「此の物(六感)自体」 は始めから 「此の存在自体」 が

「法」 としての存在なのです。

そういう成立なのです。

 


因縁生法(いんねんしょうほう)1

2017年02月10日 | 法理

私たち衆生のすべては、比較しようとしても比較する

余地はないのです。

 

「比較する」 ということは 「観念」 です。

「実体のないもの」 をとらえてそれを並べて 「比較する」

ということなのです。

 

「事実(今の事実)」 は比較出来ないのです。

比較出来るものではないのです。

 

そのことを本当に知(識)る必要があるのです。

 

それを覚者は、

「動を止むるに動なく、止を動ずるに止なし」

と、はっきり証明しています。

 

動くのを止めたら、動くものがそれっきりなくなり、

停止しているものが動き出すと、停止していることが

なくなるのです。

 

つまり、比較しようとしてもどちらも(動も止も)片が付いて

しまうのです。

 

比較の仕様がないように出来ているのです。

私たち衆生の 「一々(一挙、一動、一言、一句)」 が

「縁」 に触れて活動しているのです。

 

その「活動体(此の物、六感)」が一々皆そうなのです。

「その事自体(今の事実)」なのです。

他にあるのではないのです。

 

ですから、「因縁生法(いんねんしょうほう)」というのです。

 

 


因縁の理法

2017年02月09日 | 法理

「因縁」 によって出来たり壊れたりしているのが

「今の様子」 なのです。

 

「因縁という実体」 はなくならないのです。


「活動体(真理自体)というものは壊れる方面にも

出来る方面にもどんな」 にでも成りながら、どれからも

「離れた(脱落)存在」 なのです。

 

ですから、「因縁の理法」 は永遠になくならないのです。

私たち自身が 「因縁生法」 ですから、「此の物(六感)」 は

「因縁」 を結ぶように出来ているのです。

 

「因縁の理法」 は今の私たち衆生なのです。