活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

六根

2017年02月02日 | 法理

「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」 の内、「眼」から

「鼻」 までは、成程そうかとうけがえると思いますが、

「意(心)」 だけが、「眼」 や 「耳」 の働きのように

その場限りでは終わらないものです。

 

何故かというと、何かしら 「意(心)の働き」 というのは

執着をしたり、分別心を起こしたり、善悪をつくったり

しているように見えます。

 

しかし、「意(心)の働き」 を 「考える道具」 だと思ってみて

下さい。

考える道具ならば様々なことを思います。

好きだ嫌いだ、善いだ悪いだ、損だ得だ、迷いだ悟りだ

というのは、全部 「意(心)の働き」 そのものではありませんか。

 

「眼」 や 「耳」 の働きは、迷いとか執着などとは言わないと

思います。

「只」 というものさえ考えないくらいに聞こえて来る、見える

ということではないでしょうか。

 

「意(心)の働き」 をそういうものであると知(識)りさえすれば

「成る程そうか、このままでよかったのか」

ということも自分でよく分かると思います。