活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

不昧因果1

2017年02月16日 | 法理

ものに善悪があるわけではありません。

上下、平等、差別(しゃべつ)というものは、自分以外の

相手にある訳ではなく、皆、私の側に「ものを見る立場」というものが

あって、本心を昧(くら)ましているわけです。

 

「不昧いんが(ふまいいんが)」とは、もともと昧ますものは

何もないのにどうしても二元論という相対的なものの見方で

こちらに二つの見方があるということに気が付かないで、

相手にそういうものが備わっているかのごとくに思うものです。


そういう「思惑」が全部邪魔をしているという意味です。

一つのものですから、どうすることも出来ないのです。

 

ですから指導者は、「そのままにしておきなさい、手を付けたら

混乱が増すばかりですよ」というのです。

 

だから、ものというものは、分かれていながら一つに成っている

ことを知(識)るということが大切です。

 

これから、「一つに成ろう」とするのではありません。

これから、「一つに成る」と考えて坐ることは、「習学」

ということになります。

 

これは順逆ともに改めなければならないところです。

物事が順調に運んで満足をしていても、不満足な状態であろうとも

自分の側に比較するものを持って「損はよくないことだ、得は

よいことだ」とか、「物事が順調に運んでいる時はいいけれども、

逆境はよくないことだ」という考えを起こして、自分自身で喜んだり

苦しんだりしてしまいますが、もともと「人」の考えが毛筋ほども

入らないようになっている元々の世界があるということです。

 

そのことを私たち衆生は知(識)らなければなりません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。