私たち衆生のすべては、比較しようとしても比較する
余地はないのです。
「比較する」 ということは 「観念」 です。
「実体のないもの」 をとらえてそれを並べて 「比較する」
ということなのです。
「事実(今の事実)」 は比較出来ないのです。
比較出来るものではないのです。
そのことを本当に知(識)る必要があるのです。
それを覚者は、
「動を止むるに動なく、止を動ずるに止なし」
と、はっきり証明しています。
動くのを止めたら、動くものがそれっきりなくなり、
停止しているものが動き出すと、停止していることが
なくなるのです。
つまり、比較しようとしてもどちらも(動も止も)片が付いて
しまうのです。
比較の仕様がないように出来ているのです。
私たち衆生の 「一々(一挙、一動、一言、一句)」 が
「縁」 に触れて活動しているのです。
その「活動体(此の物、六感)」が一々皆そうなのです。
「その事自体(今の事実)」なのです。
他にあるのではないのです。
ですから、「因縁生法(いんねんしょうほう)」というのです。