しかし、出て来るのを出て来ないようにしようという事は
行ってはいけないのです。
何故かというと、それは 「六根の機能」 を停止しようと
するからです。
「機能」 を停止しようとするのではなく、「機能」 を
純粋にするだけなのです。
「私(わたくし)しない」 ということは、機能が機能としての
純粋性を純粋のままにしておくことなのです。
別の言葉で言えば、自分の都合ですべての働きを見て
批判したり、いろいろなことをするのを止めることです。
その事が自分の必要性で動いているのか、考え方で
動いているのかよく 「見極める」 といいと思います。
「目の前の物」 が 「機能」 に対して、考え方をもって
「機能」 を取り扱っているのか、それとも、「目の前の物」 が
「目の前の物」 であるということなのか、そういう「区別」は
知ってもらわなければなりません。
道元禅師曰く、
「知解(ちげ)の路に向はざらしむ」
とあるように、考え方の道(知解)に向かっていっては
決着はつかないのです。
考え方の道に自分を向けないようにするということが
「此の物の本質」 を見る 「道」 なのです。